猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

筒井賢治『グノーシス』(講談社選書メチエ、2004年)isbn:4062583135

 古代に存在した宗教「グノーシス」を、「キリスト教グノーシス」の諸派を中心に紹介したもので、著者はグノーシスをテーマとする翻訳物でない一般向け概説書としては初めてのものと自負している。私は、もう10年前、『新世紀エヴァンゲリオン』で死海文書がはやっていたとき、荒井献さんによる『トマスによる福音書』の解説などで読んで「グノーシス」のことは知っていたけど……。
 「グノーシス」は「グノーシス教」として自立した宗教というより、ギリシアプラトン主義などの考えかたがキリスト教マニ教などの教義体系に入りこんで成立した、こう言ってよければ「寄生」的な宗教だ。キリスト教グノーシスは、ユダヤ教系の「造物主としての神」とイエスを遣わした「神」は別物であるとするところに特徴がある。「造物主としての神」はにせ者であって、そこから真の神がいる光の世界へと「解脱」するための導き手として真の神のところからイエス・キリストが遣わされたのだという世界認識をとる。
 この本でおもしろかったのが「無」についてのヨーロッパ語圏と私たちとの感じかたの違いである。私たちは「無からの創成」ということをきいても「それでどうした?」という程度にしか感じない。少なくともいちおう仏教徒を公称している(すごい不信心な仏教徒ではあるけど)私はそうだ。ところが、キリスト教が普及する以前のヨーロッパ語圏では「ないものからは何も生まれない」ということが当然だと思われていたらしい。つまり「何もないところから何かが生じた」という言い回しは「取るに足りないものから価値のあるものが生まれた」という、「素材‐加工」(「質料‐形相」)関係的な発想で解釈されたらしい。
 あんまり図式化したくないけど、「主体哲学」である西・中央ヨーロッパ哲学に対する西田幾多郎の「述語哲学」という図式がこのとき頭に浮かんだ。また、私たちは「宇宙が無から生まれた」と聞いても「ふ〜ん、まぁ、そうだろうなぁ。140億年前から宇宙があるんだったら、その前は何もなかったんだろうな」などと納得してしまうけど、科学的思考に基づく宇宙物理学では「では、その無って何だ?」ということをしつこく探究していく。で、「量子状態では完全な無は存在しないのだ」という議論から零点震動というような話になり、「超弦理論」というようなものが考案されて、この「超時空弦」が超ラッキー娘ミルフィーユ・桜葉の幸運に共振して紋章機を飛ばす原動力になるというようなゲームやアニメができてきたりするわけである(なんか話が逸れた。でもこういうところでキーワードで何の話かがわかるのがはてなのいいところですよね!)。
 この本の著者の「グノーシス」(真の知というような意味らしい)論は、そういう「この先にもっと真実らしい真実があるに違いない」とあくまで探究をつづけていく「好奇心」を「グノーシス」論の落としどころにしたいらしい。
 「私たちが神として見ているものの背後に、その神をさえ作った真の神が存在するのではないか」とか、「私たちが世界の真の姿だと思っているものの背後に、その世界をごく一部に含む真の世界が存在するのではないか」という疑惑が「グノーシス」の基本的発想だと思うのだけど、これはファンタジーの構造を考えるときに役に立つ議論で、私は、むかし、神坂一の『スレイヤーズ!』シリーズの世界観をこの「グノーシス」で説明しようとしてみたことがある。まあ、どういう話かは『スレイヤーズ!』シリーズ(すくなくとも第一部の最後まで)をお読みになればおわかりになると思いますが……要はL様と部下Sその他の関係ですね。
 「グノーシス」の信者は「神の火花」(「造物主」としての神に造られたにせもの世界の人間が真の神のいる真の世界を知ることのできる手がかりになるもの)が人間に宿っているということを信じていたらしい。で、フルトヴェングラーバイロイト「第九」を聴いてからずっと「第九」の聴き較べなどを延々とやっていると、シラーの書いた歌詞の冒頭が「喜びよ、神の火花よ、天国の娘よ」となっているわけである。ベートーヴェンやシラーが「グノーシス」をどれだけ意識したかは知らないけど、ベートーヴェンやシラーが生きた「ヨーロッパの革命」の時代というのは、「いま私たちが生きている世界の外に真の世界がある」という信念で「いま生きている時代」の殻を打ち破っていった時代でもあるわけで、「グノーシス」というのは「第九」の第四楽章のような高揚感のある世界認識なのかなと思ったりした。