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地動説はどう正しいかという話

 ここ二度ほどの更新で、私のホームページで「地動説はなぜ正しいと言えるのか」という話をしている。もともと『天文ガイド』(誠文堂新光社)の2月号に載っていたえびなみつるさんのコラムをネタにした話だったが、書いているうちに自分でも「地動説はどう正しいのか」ということをいろいろと考える契機になった。
 地動説でも天動説でも惑星の動きは説明できる。要するに、太陽系の惑星を見るための座標の中心を、太陽に置くか、地球に置くかというちがいだ。天動説で惑星の動きを説明するには、いちど地動説でケプラーの法則に従って太陽を中心に天体の動きを計算し、それを地球中心の座標に換算すればいい。同じような座標の置き換えをやれば「月こそが宇宙の中心だ」という体系だって作ることはできるはずだ。
 天動説では、たとえば、水星・金星の内惑星は、円軌道の上に中心を持つさらに小さな円(「周転円」という)の上の軌道を回っていると考える。そして、その小さな円の中心はつねに太陽ときっちり同じ方向にあるというのだ。これでも観測結果との矛盾は出てくるが*1、いちおう水星と金星の動きだけならなんとか説明できる。ただ、この説明では、水星と金星が回る小さな円(周転円)の中心が太陽の方向と常に一致することを説明しなければならなくなる。それだったら、すなおに水星も金星も地球も太陽を中心に回っていると説明したほうがかんたんだ。
 地動説の「正しさ」とは、天動説より簡単に惑星の動きを計算できるという意味の正しさに過ぎない。というより、近代科学では、無意味にややこしい説明のしかたを「まちがい」とし、できるだけ単純な説明のしかたを「正しい」と仮定して、「正しさ」を定義しているのだ*2
 だから、「正しい」説では説明できない現象が発見されて、いったん「正しい」説に否定された「まちがった」説に立ち戻って説を立て直さなければならないことも近代科学では起こるだろう。近代科学の「まちがった」説は、「正しい」説が成り立たなくなったときに立ち戻るべき足場を与えてくれるのだ。だから、近代科学の体系では「まちがい」にも一定の存在意義がある。大量の「まちがった」説に支えられていない「正しい」説は、近代科学では存在し得ないか、存在したとしてもとても脆弱な理論だということになるのだろう。

*1:たとえば、金星は満ち欠けしており、三日月型のときに大きく、満月型になったときに小さく見える。これは地動説で金星が太陽の向こうに回るからと考えるとかんたんに説明できる。しかし、天動説の「周転円」説では、金星は太陽より常に地球に近いところを回るはずなので、そもそも金星が満月型に見えることはない。

*2:もちろん、現象と明らかに矛盾する理論はどんなに単純明快でもまちがった理論であるという前提での話だ。