猫も歩けば...

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地動説はどう「正しい」かのつづき

 今日でも占星術は天動説を使う。生まれが「○○座」というのは、太陽が天球上を動いていくと仮定して、太陽が何座の方向にあるときに生まれたかという意味だ*1。西洋占星術では太陽と月を含む惑星を地球中心に回っているものとして扱い、地球から見たときの位置関係で運命や運勢を占う。
 また、詳しいことは知らないが、人工衛星の軌道を考えたりするときも地球中心に「天動説」的に考え、二次的に太陽からの引力による位置のズレの補正などを入れるのではないだろうか?
 天動説は「まちがい」と言っても、前に書いたように、座標の取りかたの問題なのだから、「近似的に正しい説明」として使える場面はいろいろあるのではないかと思う。
 それを考えてみたとき、ガリレオとかニュートンとかの時代にわざわざ地動説を利用して説明しなければならないような場面がどれだけあったのかというとけっこう疑問だ。逆に言うと、理論的整合性だけを追求して地動説を主張したこの時代の「科学」者の近代科学精神というのは、いまの私たちが想像する以上に堅く、あるいは頑なでがんこだったということも言える。もっとも、「近代科学精神」などというのは、あとから私たちが考え出した虚構であって、ガリレオもけっこういろいろトンデモなことも考えていた人だという話だし、天体回転の法則を発見したケプラーだってたしか占星術師だったんじゃなかったっけな? そういうなかで近代科学へとつながってくる流れをあとから構成して、そこから抽出したもので再構成したのが「近代科学精神」なのではないだろうか?
 そういうことを考えると、「どんなに正しそうな法則でも、実験・観測や数学的証明によって正しいと証明されないかぎり、その法則は正しいとは言えない」という「近代科学精神」がどこから生まれてきたかということに興味が湧く。「近代科学の精神」として自覚されるようになったのは18世紀の啓蒙時代か、もしかするともう少し後かも知れない。でも、その発想そのものは、もしかすると近代より前の教会哲学(さらに遡るとアリストテレス哲学・物理学)なんかからじつは引き継がれたものなのかも知れないと思う。

*1:ただし、天文学と西洋占星術では春分点の位置が違うので、生まれたときに天文学的に太陽が見えていた星座からはずれる。