猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

東浩紀・大澤真幸『自由を考える』(isbn:4140019670)

 なんか、東さんご本人(id:hazuma)にとっては心外かも知れないけど、正直な感想を言うと、東さんの文章って対談のほうがわかりやすくておもしろいな〜。この本は『動物化するポストモダン』のあとに書かれているのだけど、『動物化するポストモダン』でよくわからなかったところとか、誤解していたところとかが、この大澤さんとの対談を読むとわりとよく理解できた。私が慣れたってこともあるかも知れないけど、でも『網状言論F改』とか『美少女ゲームの臨界点』シリーズとかでも同じことを感じたしなぁ。
 この二人の対談を読んでひとつ考えさせられたのが、「極端な事態を想定する思考法」というのが社会運動に対する説得力を失っているということだった。つまり、監視社会が進んで、政府が個人が何時何分に何をやったかを記録して、それを弾圧に使うというような事態も考えられるわけだけど、それを基礎にした批判というのが社会的に力を持ち得なくなっているということだ。一方で、いまの社会で進んでいるのは、「どこでどんな破壊的なことが起こるかわからない」という「セキュリティ」志向であるわけで、そこでは「極端な事態」(いまここで大規模なテロが発生し、自分が巻きこまれるかも知れない!)が想定されてそれに対する「万全な準備」が求められる。これはたしかにいまの世界(すくなくともアメリカ合衆国とか日本とか)では整合しているんだけど、でもどうして整合しているんだろう? これは、この世界で何が「正しい(justな)」のかということと、政府は「正しさ」にどうコミットすべきかという問題にけっきょくかかわってくるんだろうな。
 もうひとつ、必ずしもこの対談というわけではないけど、出てきた概念で「おやっ?」と思ったのが「生権力」という概念だ。近代より前の権力は「人を殺すことのできる」権力だったけど、近代の権力は「人を生かして、その生とか身体とかを管理する」権力だという話だったと思う(なんか違うような気もする……)。しかし、前近代の政治権力だって、支配の下にある人たちを生かすためにはそれなりに懸命だったわけで、しかも、中国の漢王朝前漢)とか日本の奈良時代の王朝とかは人民を一人ひとり個別に把握していて、ばあいによっては身体的特徴まで押さえている。そして、人びとを生かすためにいろんなことをやっているわけだ。そう考えると、政治権力と「身体」を持った動物としての人間との関係というのは、べつに近代や「ポストモダン」時代に限ったものではないように思えるのだけど。