猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

ヘゲモニーという考えかた

 ふと思いついたこと。
 そういえば、リベラルにせよ、リバタリアンにせよ、コミュニタリアンにせよ、自由とかリベラリズム自由主義……井上達夫さんによると誤訳らしいけど)とかについて書かれたもので出てきた覚えのないことばがこの「ヘゲモニー」だ。そういえば、最近は「帝国」論がはやっているそうだけど(ネグリとハートの『帝国』は買ってきたけどただいま積ん読中)、その「帝国」論でもあんまりこの「ヘゲモニー」ということばを聞かないように感じる。まあ私の読書範囲が狭いというのが考えられる第一原因なんだけど。
 「ヘゲモニー」ということばは、一時期、国際政治の方面で流行したらしくて、それとの関連でか何か知らないけれど、マルクス主義方面でも「ヘゲモニー」ということばを聞いた気がする。グラムシが使ってるんだったかな。ともかく昔のことでよく覚えていない。
 リバタリアンなものにせよ、コミュニタリアンなものにせよ、ともかく「リベラルな社会」というのを考えたときに、その社会でのヘゲモニーというのの存在がけっこう厄介な問題になるはずだ。こう言うと「ヘゲモニー」の定義がまた問題になるけれども、とりあえずは、漢字で言うと「覇」な存在、「覇道」的な存在で、その力に正統性があるかないかにかかわらず、自分の力で他の人間や集団になんでも言うことを聞かせてしまうような存在と言っていいだろう。
 晩年のロールズが考えたように社会がいろんな「共同体」の重なり合いだとしたとき、そのいろんな「共同体」でさまざまな合意がなされれば、その合意の「重なり合い」で社会的正義(公正さ)は保持される。けれども、社会を構成するさまざまな「共同体」のうち多くの「共同体」で大きな力を握っている存在があったばあい、そんな「共同体」の合意が重なれば、その「大きな力を握っている存在」のほうに社会が引きずられることになる。その「大きな力を握っている存在」が正しいと思うこと、公正だと思うことが、社会全体の「正義」になってしまう。ひどいばあいには、その「大きな力を握っている存在」のむき出しの私利私欲が社会の「正義」になってしまいかねない。
 こういう「大きな力を握っている存在」を「ヘゲモニー」の持ち主だと考えたばあい、リベラルな社会をどのようにしてそのヘゲモニーから守ればよいのだろう? その機構を考えないと、どんなリベラリズムも絵に描いた餅というか絵に描いたパンというか(まあアメリカの論者はリバタリアンでもコミュニタリアンでも餅は食べないだろうから……)、そういうものになってしまうように思うのだ。
 これっていうのは、このまえから(私的毒吐きも絡めつつ)書いている「コミュニタリアニズムの頽落」とも関係してくると思う。共同体のなかでヘゲモニーを握った集団が「これがわれわれの共同体の合意だ」というのを勝手に決めて押しつけたばあい、その共同体のメンバーはどう抵抗すればいいのだろう? コミュニタリアンの本というのは、私は藤原保信さんの本以外に読んでいないのでなんとも言えないところがあるんだけど、ヘゲモニーを含めて権力性みたいなものに対して、「コミュニタリアンな権力は暴走したりしないし、悪い権力には転化するはずもない」みたいなすごい楽観があるような気がするのだ。たぶん私の勉強不足から来る思いこみなんだろうけど。