猫も歩けば...

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社会主義失敗の原因

 社会主義がなぜ失敗したかというと、それはいろんな理由があるのだろう。その思想自体にもムリがあったのかも知れない。だが、高邁な理想を掲げる思想にはある程度の「ムリ」はあるものだ。もし「ムリ」がないのならその理想はすでに実現しているだろうから。
 社会主義のばあい、理論が生まれた現場で直ちにその時代の労働運動の思想になり、実践にかかわらざるを得なくなり、また生まれたその場で激しい論争に巻きこまれたという特徴がある。それが社会主義独特の不幸につながっているのではないかという感じをいま私は抱いている。
 自由主義のばあい、たとえばロックのばあいだと、それは直ちに革命運動の綱領に採用されたわけではなかった――のちにアメリカ革命の指導理論になるにしても。しかも、詳しいことは知らないけど、たぶん「土地本位の社会から貨幣本位の社会へ」という動きは、ロックが『市民政府論』(『国家支配論』)第二編を書いたときにはすでに始まっていたのではないか。だとすると、ロックが「土地本位の社会から貨幣本位の社会へ」という転換をその理論の一つの基礎に据えたのは、ある程度はすでに起こりつつあった動きの理論化という面があったのではないか。
 これはロールズノージックにいたるまで同じだと思う。たしかにノージックが『アナーキー・国家・ユートピア』を書いた時期にはアメリカで福祉国家が行き詰まり、新しい国家運営の理論が求められていた時期だった。ノージックリバタリアニズムはその後のレーガン的政策に基礎を与えたかも知れない。けれども、私が読んだかぎりでは、『アナーキー・国家・ユートピア』のノージックからは「経世」的な姿勢はなかなか感じられない(社会主義者だった時代のノージックにはそういう姿勢はあったかも知れないけど)。
 論者が社会運動に実際に熱心かどうかは別として、理論としては、20世紀自由主義も実践からは一歩引いたところで生まれ、実践から一歩引いたところで成熟してから、実践の場に出て行ったか引き出されていったかという印象がある。
 ところが、マルクスは、一方で『資本論』みたいな理論的考察を展開しながら、他方では国際労働者協会での活動にかかわり、アナーキストと論争し、資本主義国家に気の利いた悪口や皮肉を投げかけ……という理論と実践の二正面作戦を生きた。これはレーニンでもスターリンでも毛沢東でも同じだった。たぶんカウツキーでもベルンシュタインでも。また、マルクス以前のオーウェンにしてもそうだ。というか、社会主義方面では、運動家・実践家としても名をなしていないとその人の理論が尊重されないというような風潮があったような気がする。
 そのことが、社会主義理論に独特の性急さを持ちこむ結果になったのじゃないかと思うのだ。また、理論と実践の棲み分けみたいな知恵が発達する前に、「実践とは何か」、「実践の先に何が待ちかまえているか」ということを十分に理論の側で考え詰めないままに、社会主義はあまりに無防備なまま「実践」に飛びこんでいった。しかも、ともかく「実践」に飛びこんでいくことを奨励し、飛びこまない者を罵るような性格を身につけてしまった。それが思想としての社会主義のアンバランスさ――ある面ではがちがちに理論的に組み立てられて身動きできないまでに「枯れ」てしまい、別の面はツッコミどころいっぱいの未熟で無邪気なまま放置されてしまうというアンバランスさを生んだのではないかと思う。
 まだ論証はしていないので、あくまで思うだけだけど。
 ところで、そういうアンバランスさや未熟さは、すでに滅亡した(?)マルクスレーニン主義のもので、いま生き残っている「社会民主主義」は違うという意見もあるんじゃないかと思う。でも私はそういう意見にはやっぱり「そうかな〜?」と感じてしまう。社会民主主義も、理論の成熟度という点では、現状ではロールズノージック井上達夫さんたちのリベラリズム自由主義)には残念ながら遠く及んでおらず、情緒に寄りかかっている面が大きいんじゃないかというふうに感じる。
 まだ論証はしていないので、あくまで感じるだけだけど。