猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

長沼毅『生命の星・エウロパ』のつづき

 この本では、他の生物起源の栄養に依存せず(ただし酸素は使う)、地球から湧き出る物質を直接に取りこみ、体内に共生したバクテリアに分解してもらって栄養素にしている生物としてチューブワーム(ハオリムシ)が大きく採り上げられている。太陽から遠いエウロパでは、地球上のように、太陽の光の力で光合成して養分を蓄えた植物を動物が食べ、その動物をより大きい動物や強い動物が食うという、太陽を起点とした食物連鎖は成り立ちにくい。だから、エウロパに生物がいるとすれば、このチューブワームのように、惑星から湧き出す物質を摂取して生きる生物である可能性が高いということだ。
 著者の長沼さんはチューブワームが群生するようすを「お花畑」のように美しいと書いているのだけど、私は最初にこの生物の映像を見たとき、何か非常に「異」なものを見た気がして、毒々しくて非常に気もちわるかったのを覚えている。最近ではそうでもなくなったが、やっぱりあんまり手で触ってみたいとは思わない。まあ、私は釣りのときにえさのイソメをつかむのもためらってしまうぐらいだから。子どものころは平気でミミズをつまんだりしていたんだけどねー。でも、このチューブワームというのは、たしかに、人間が生きられないような高温高圧の海のなかで、しかも人間にとっては毒の硫化水素のなかで生きているのだから、「異」なものには違いないと思う。
 長沼さんは、もしかすると「食物連鎖で支えられる」ことを生命の宿命みたいに考える考えかたに抗い、それとは違う生命の存在があることを強調したいのかも知れない。岩石に住む細菌に注目しているのも、それが食物連鎖ではなく地球から発生する物質(水素など)に支えられているからだ。このチューブワームや岩石栄養細菌を宮沢賢治が知ったらどう思うだろうとちょっと思う。宮沢賢治は、人間を含む生物が他の生命(その生命が作った身体)に依存しなければならないことに悩み、それをせめてなるたけ減らそうとして「ビジテリアン」として生きた。それが宮沢賢治の「弱肉強食」の社会への違和感や批判へとつながっていく。
 「よたかの星」というのは、夜鷹という醜い鳥が、ほかの鳥とかに蔑まれながらも、自分も虫を食って生きていることを知っているので自分を憐れむこともできず、力尽きるまで飛びつづけるしかなくて(これは、むきになって飛んだということではなくて、このときの夜鷹の立場では落ちついて考えてもほんとうに飛びつづけるほかに選択肢がなかったという話だと思う)、最後に星になってしまったという美しい物語である……というか、だったと思う(さいきん読んでないので……)。でも、そうやって星になる必要のない生き物もいるし、エウロパのように太陽から遠い星ではそれが普通なのかも知れない。
 ところで、動物や植物の細胞のなかのミトコンドリアや、植物の細胞のなかの葉緑体は、それぞれバクテリアが細胞に入りこんで共生したものだ。ミトコンドリアなど、遺伝子の一部を細胞の核に移してしまっている。これを「細胞の核がミトコンドリアの遺伝子を人質にしてミトコンドリアを支配している」と見るか、「ミトコンドリアが、自分の遺伝子が酸素にさらされるのを嫌って核に避難させた」と見るかで、核とミトコンドリアの関係が「支配者‐奴隷」の関係に見えたり「御恩‐奉公」の関係に見えたりする。要するに人間の社会関係をあてはめようとするからイメージが分裂してしまうのだろうけど、あんがい人間社会のなかの「関係」もそう一義的に決められないのかも知れないと思う。
 まあそれはどうでもいい。もし地球上が硫黄だらけの環境になってしまったら、こんどは地球上の多くの生命は硫黄を栄養源にする細菌を細胞内に取りこんで、細胞内小器官にしてしまうのだろうか。
 また、チューブワームの細胞はいつか硫化水素分解細菌を自分の細胞の小器官として取りこんでしまい、別の生物に進化するのだろうか。それとも、いったん多細胞生物になってしまうと、細胞に他の細菌を共生させるような能力はなくなってしまうのだろうか。あるいは、人間は、とつぜん地球が硫黄だらけになったら、細胞に硫黄に適応した細菌を共生させて生き延びることができるのだろうか? でも、そういう進化が自然に起こる前に、遺伝子工学であらゆる毒物に対応可能な人間の細胞を作るひととか出てきそうだな。