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神田千里『土一揆の時代』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、isbn:4642055819)

 昨日採り上げた『島原の乱』の著者 神田千里さんの前著。この本では、「土一揆」というものが登場し始めた時期(1420年代、正長年間)から、それが変質し、やがて江戸時代の「百姓一揆」へと姿を変えていく過程が、主として京都周辺の状況を中心に描かれている。京都中心なのは、たぶん史料の残存状況と、京都が当時の政治の中心だったという事情からで、とくに京都や現在の近畿地方だけを重視しているわけではない。島原の乱についても「百姓一揆の時代へ」の章で一節を割いて扱っている。
 土一揆は、生活に困った民衆が、「徳政」を求めて政治権力に向かって立ち上がった事件――ではないというのが、この本での神田さんの主張だ。まず、土一揆は、村の一般民衆が起こしたものではなく、武士の一部が中心になって起こしたものだ。しかも、その「武士」には、幕府の重臣の臣下(被官)たちも多く含まれていた。そういう武士集団が襲ってきて、貸金業者と武力で対決するというのが、京都周辺で頻発した土一揆の特徴の一つだった。
 たしかに生活に困った民衆が村ぐるみで決起した例もなくはない。また、村の人たちが生活に困っていたというのもそのとおりだ。「困っていた」どころでなく、この時代の村の人たちは、「普通に暮らしていてなんとか生きていける」という水準すら下回る、非常に厳しい環境で生きていた。しかし、だからこそ、そういう村人たちは軽々に一揆に参加したりはしなかった。一揆側と政治権力側の勢力バランスを見ながら、その両方と一線を画して行動していた。一揆側に有利に解決しそうだと政治権力側に徳政(=借金破棄、質物の取り返しなど)を求め、政治権力側に有利に解決しそうならば一揆鎮圧に協力する。「日和見」に徹していたのである。そうでなければ、村を存立させるための(最近のことばで言えば「持続可能」にするための)条件(これを「村の成り立ち」という)すら失われかねないからだ。
 では、一般の村の人びとでなければ、一揆に参加していたのはどういう人たちなのか。それは、南北朝時代までは「悪党」と呼ばれ、戦国時代には「足軽」になっていくのと同じ、武士集団の下級兵士たちだった。そういう土一揆の来襲に対して、村や町は武装して自衛したのである。
 また、一揆は政治権力の打倒を目指したものではない。どんなに荒々しい行動であっても、それは政治権力を交渉の場に「引きずり出す」ことに目標がある。「革命のための武装決起」とはまったく違ったものだった。一揆の交渉相手としても、住民の防衛行動を正当化するためにも、一揆の要求をどこまで容認するかという判断を下すためにも、幕府や将軍の権力は必要なものだった。衰退し、形ばかりのものになったとされていた将軍の権力・権威も、京都周辺の政治秩序の維持にはなお必要なものだったのだ。
 そういう「土一揆」のあり方は、戦国時代末期には変わっていく。「土一揆」の主力だった下級兵士たちは戦国大名によって組織されるようになる。そうなる前の「土一揆」の姿をとどめた最後の反乱事件が島原の乱だった。この「土一揆」の変容につれて、「一揆」とはほんとうに村の民衆=百姓が起こすものになった。それと同時に、重要な変化は、殺傷力のある兵器で武装せず、鉄砲を持ち出したとしてもぱんぱん鳴らして気勢を上げるためにしか使わなかった。そういう百姓一揆が起こっている状態を百パーセントの「平和」と言っていいかというと、そうでもなさそうだが、少なくとも、相手を殺傷することを最初から放棄した威嚇によって目標を達成しようとするのが、江戸時代の百姓一揆だったのだ。その裏側には、村が「普通に暮らしていれば何とか生きていける」水準をようやくいちおう達成したという事情があったのだろう。
 社会のなかで暴力がどんな現れかたをするかは、その社会のあり方によって違う。「暴力のない状態」と「暴力がある状態」という二極でしか考えず、「暴力がある状態」をただちに無秩序と見なしてしまうのはまちがいだ。「暴力がある状態」もさまざまな要件によって制約を受け、それによって、「暴力がある状態」の性格も変わってくる。私たちの時代にも、「九・一一事件の前と後」で、やはり「暴力がある状態」の性格は変わったのではないか。
 「生活に困ったら民衆は必ず決起するもの」という考えかたも、ここに紹介されている土一揆像と照らし合わせれば、やはり事実に合しない。生活に困った民衆は、「武装決起」などという賭けには出ないものなのだ。では、どういうときに民衆は「武装決起」するのか? それは、島原の乱のばあいや、一向一揆法華一揆の例、さらにはフランス革命七月革命二月革命パリ・コミューン事件も含む)でのパリ民衆の動きとかも見て考えればいいのだろう。神田さんはもともと一向一揆の研究をなさっていたようなので、その研究もいずれは読んでみたいと思う。
 また、土一揆について、「生活に困った村の民衆の決起」と見られてきたのは、江戸時代の百姓一揆の像が戦国時代以前に投影されたからだった。そういう「投影」や類推は、歴史を見るうえで有効なものだろうとは思う。けれども、そうやって「投影」されてできた歴史像は、やはり何度も検証し返さないと、薄弱な根拠のうえに新たに別の解釈が積み重なって、実態とは違う歴史像がつくられてしまうことがある。
 ところで、「投影」というと、自分の考えていることとかを未来に「投影」したばあい(「〜〜がやりたい」と思ってそれを実行に移すようなばあい)には「投企」と呼ばれたりする。ということは、「投企」にも、投企する時点での、投企する人・人たち自身のあり方とか状況とかが深く関係しているわけで、やっぱり未来への「投企」という行いもそういうことを考えて議論しないといけなかったりするのかな? まあこういうことは、実際に「投企」(プロジェクト)を実行してる人も、「投企」を哲学的に考えている人とかが、なんかいろいろ考えているのだろう。