猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

宮台真司・北田暁大『限界の思考』双風社(isbn:490246506x)

宮台真司さんと北田暁大さん(id:gyodaikt)の対談本。2004年春から2005年春まで、ほぼ1年、4回にわたって行われた対談に、半年ほどかけて2人が加筆して構成した対談集である。宮台さんのことはよく知らないけど、北田さんのほうは、この対談が進んでいるあいだに、『〈意味〉への抗い』→『嗤う日本の「ナショナリズム」』(単行書)と本を出していて、そのことも対談に反映されている。
 何にしても1900円にしてはすごい読みごたえのある本だ。読むのに半月ぐらいかかった。読みごたえがありすぎて、何が書いてあったか忘れてしまった……ってダメじゃん。
 ともかく宮台という人は理屈っぽい人だなというか、理屈をこねることではだれにも負けない凄い人なんだということはよくわかった。まあ、たぶん、この理屈こねのねばり強さが、宮台さんが重要な概念だという「強度」っていうのに関係してるんだろうな、というのは、これは半分くらいは本気で感じている。たぶんそうなんだよね。自分の議論の弱点を衝かれたら、西村受くん(id:r_kiyose:20060118参照……しなくてもいいです)のように潔く後退してしまうんじゃなくて、「それでもこれはこうです」と見苦しく粘る。それどころか、なんか関係なさそうなことを持ち出して、自分がいっぱいネタを持っている分野に相手を強引に連れて行ってしまう。もちろん宮台さんにとっては必然的な関連があるんだろうけど、はたから見るとトリッキーに見えたり強引に見えたりする。でも、そういう見苦しさとかトリッキーさとか強引さとかいうところから、「思考」の強さというのか、「科学」の強さというのか、そういうものが生まれるのだと思うのだ。私にはとてもまねできないけど。
 その宮台さんに対して、聞き出したかったことから見ると宮台さんがまるであさっての方向に話を振って、振るだけならまだしも自分の得意分野まで引っぱりこんでしまっても、北田さんもできるかぎり粘って抵抗しているのが印象的だった。
 私は、メールマガジンの『波状言論』とか、『嗤う日本の「ナショナリズム」』とかを読んだときには、「宮台真司が右傾化した」という話ばかりに気を取られていた。天皇制を擁護したり「亜細亜主義」とか言ったりしたぐらいで何が「右傾」かなぁなどと思ったけど、ともかく宮台さんへの関心はそこで止まってしまっていた。しかし、この対談を読んでみて、宮台さんはやっぱり一度はまじめに取り組んでみるべき人かな、と思った。
 宮台さんの議論にはいろいろ違和感を感じる点があるのだけど、宮台さんから見ればそれは私がヘタレだからだろうし、そうじゃないことを証明するためには私が「強度」のある粘りを示して見せないといけないんだろうけど……まあそれは長期目標と言うことにしよう。というわけで、ここでは一点だけ触れておきたい。
 宮台さんは自分を「ヘタレ右翼」ではない「真の右翼」だといい、右翼と左翼を主意主義主知主義として区別する。主意主義主知主義の区別はいちおうわかる。世界は「知」ですべて理解できるというのが主知主義で左翼、それは不可能だというのが主意主義で右翼で、自分は主意主義だから右翼だ――というのだけど。
 だったらわざわざ「右翼‐左翼」なんて言わなくても、「私は主意主義者です」と言えばすむことじゃないか。そんなこと言うから東浩紀さん(id:hazuma)とかに「宮台が右傾化した!」とか言われてしまうんじゃないか、というようなことは、わざとやっているのだろうからいいけど。
 主意主義は世界全体を「知」で理解することはできないとあきらめる(諦念する)。しかし、それでも「全体」への志向をあきらめない。それが宮台さんの立場で、その立場に私はとりあえずは共感はする。自分でそれを実践するかどうかと言われると、「やります」と言い切る覚悟はまだないけどね。
 ……いや、北田さんも宮台さんも、ともかく二人とも凄いひとです。