猫も歩けば...

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森茂暁『南朝全史』(講談社選書メチエ、isbn:4062583348)

 南北朝時代の一方の「主役」である南朝の歴史を、南朝天皇家になる「大覚寺統」の成立から、南北朝「合一」後の南朝の後裔が室町幕府に対して起こした「後南朝」運動まで含めてまとめた本である。
 小学校から、南朝について学校で教わる内容にはアンバランスなところがあった。というより、それがアンバランスだとさえ認識していなかった。
 それは、後醍醐天皇の話は華々しく出てくるのに、そのあと、南朝の具体的な話はほとんど出てこないということだ。それで、足利義満時代になって「南北朝の合一」の話で出てきて南朝は終わってしまう。高校のころには、湊川の戦いとか四条畷の戦いとかは、ともかく合戦の名まえくらいは知っていたし、だいぶあとになって「正平の一統」の話を知り、じつは南朝主導の統一のチャンスがなくはなかったのだということも知った。でも、では、南朝というのがどんな朝廷だったのかということは、あまり知らなかった。いや、そういえば、「北朝側」の室町幕府の話はまあまあ知っていたけれど、北朝そのものについてはいまもほとんど知らない。
 この本を読んで、南朝についてよく知られていない理由の一つがわかった。そもそも南朝についての記録そのものが少ないのだ。そのなかで、著者の森さんは、天皇の命令である綸旨(りんじ)を丹念に収集し、また、南朝の歌集『新葉和歌集』の和歌の内容と詞書き(歌が詠まれた状況などを記した「前書き」)を分析することで、南朝の実態に迫ろうとしている。そうやって見えてきた南朝は、勢力を失った後も、軍事や政務や訴訟に天皇が直接に関わるような政治体制をとりつづけた王朝だったということだ。
 また、著者によれば、南朝を支えつづけたのは、征西将軍宮懐良(かねよし)親王(この本は「かねよし」と振っているが、たぶん「かねなが」という読みもあると思う)の下で九州を南朝方が押さえていたことで、九州を失うとともに南朝の活動ははっきりと衰えているという。九州から物資を空輸していたわけでもないだろうから、吉野や大阪南部の南朝の本拠地と九州とを結ぶ、おそらく海上のルートを押さえていたのだろう。後期の南朝が、吉野の山中から大阪南部へと本拠地を移しているのも、南朝の「海上勢力」としての性格を反映しているのかも知れない。また、九州を押さえていることの威信とか、懐良親王が明から「日本国王」を認められたことの意味とかも、もしかすると大きかったかも知れない。この「日本国王」の権威は、足利義満が「日本国王」になったことがどれだけインパクトを持ったかということにも関係すると思うのだけど、それ以上のことは私にはわからない。
 あと、いわゆる大覚寺統南朝系)と持明院統北朝系)との分立そのものがすぐに南北朝対立に結びついたのではないこと、鎌倉幕府室町幕府(義教まで)も基本はその両統を存続させる(天皇を出す家として存続させるかどうかは別として)という政策だったことなども、この本ではじめて知った。また、貴族の家のなかで北朝南朝に分かれている例がけっこうあることも知った。貴族の家は京都にあるので、だいたいみんな北朝方と思っていたのだが、そうでもないようだ。これは、対立する両方にスタッフを出して「保険」をかけたのか、それとも、応仁の乱のときに起こったような「同時多発お家騒動」なのか?
 また、後醍醐天皇大覚寺統でも傍流(後二条天皇の弟)に属し、したがってそれまでの原則で皇位継承が行われるならば大覚寺統のなかでも「中継ぎ」にすぎない天皇だった。これはいちおう知っていた。けれども、その「中継ぎ」の後醍醐天皇天皇復権をめざして「本格」的に活動しはじめた時期に、大覚寺統自身が分裂状況に陥っていたことはこの本ではじめて知った。そして、大覚寺統でも、後醍醐天皇系に天皇家の地位を持って行かれた後二条天皇の系統は北朝側にとどまったこと、また、後二条天皇後醍醐天皇の叔父にあたる恒明親王やその子孫も天皇候補者の一員であり、この系統も(出家していない皇子は)北朝側にとどまったこともこの本で知った。南北朝時代の構図はそう単純なものでもないらしい。
 いま天皇家系図を見てみると、正平の一統が破綻して光厳・光明・崇光三上皇南朝に連れ去られたというハプニングが関係しているけれど、北朝だって崇光系と後光厳系に分かれている。ではハプニングがなければ天皇家は崇光系に固定されていたかというと、崇光天皇の皇太子(皇太弟)は花園天皇の皇子の直仁親王だった。直仁親王が皇太子を廃されたのは正平の一統のためだから、正平の一統事件がなければ直仁親王が即位していた可能性が大きく、そうなると皇統は崇光系と花園系(後伏見系と花園系。後伏見天皇花園天皇後二条天皇後醍醐天皇の同世代=後嵯峨天皇の曾孫の兄弟である)の迭立になる可能性もあった。南北朝に分立してしまわなければ、大覚寺統側で後二条系・後醍醐系・恒明親王系、持明院統で花園系・崇光系・後光厳系という六統迭立になる可能性まであったわけだ。
 ところで、南北朝の対立が始まったのは、後醍醐天皇の個性の影響が大きいわけだが、では、後醍醐天皇が登場しなければ、あるいは、後醍醐天皇が強烈な個性の持ち主でなかったならば、南北朝対立は起こらなかったのだろうか? 鎌倉幕府は存続していたのだろうか? それとも、それでもこの14世紀のころに何かの大きな変動は起こっていたのだろうか?
 前に読んだ神田千里さんの本によれば、鎌倉時代後期から南北朝時代に活躍したというか暴れ回った「悪党」集団は、室町時代中期から戦国時代の「一揆」集団につながって行くようだ。で、この『南朝全史』の特徴は、鎌倉時代後期から戦国時代の初期(「追憶・心象」まで入れると戦国時代末)までを一つの流れとして大覚寺統南朝後南朝小倉宮家)を中心に見ていることである。いろんなレベルで、「蒙古襲来」あたりから、戦国時代末、戦国大名が領国単位の最高支配権を確立するまでの時代を一つの時代として把握する試みが進んだら、日本の「中世」の後半の一つの時代の相貌がもっとはっきりと浮き上がってくるかも知れないと思う。
 まあ、専門家の世界ではとっくに行われていることなのかも知れないけれど。
 この本を読んで感じたのは、やっぱり専門家の議論の説得力を裏打ちするのは地道な資料(史料)集めとその解釈なんだな、ということだ。私はその目立つところだけ拾ってこんな文章を書いているわけだけれど、地道な資料集めはそうかんたんにできることではない。それだけに、地道に集めた資料をもとに展開されたこの本の議論には説得力があると思った。