猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

喪失感を飼い慣らす

 今日の夕方、職場の近所の軽食のお店に行くと、小さい男の子が店のなかで遊んでいた。そこの店をやっている家の子だ。家族経営の店で、昼飯どき以外は店に来るのがほとんど常連という店なので、その子が保育園から帰ってきたあとはしばらく店で遊んでいることが多い。私を含めて常連客もだいたいその子と顔なじみになってしまっているから、その子が店で遊んでいても気にしない。
 で、今日、行ってみると、その子が、店のコップとコーヒー用のスプーンで遊んでいた。昼飯どき以外はお客さんが少ないので、どうも昼飯どきにつかったコップとスプーンが余るらしい。それをまとめて置いたのを引っぱり出して遊んでいるのだろう。
 どんなふうに遊んでいるかというと、まず、机の上に散らばっているスプーンを一本ずつ拾って、一本ずつコップのなかに入れる。ぜんぶ入れるとコップを倒してスプーンを机の上にばらまく。それでまたそのスプーンを拾って一本ずつコップに入れる。ぜんぶ入れるとまたコップをひっくり返してばらまく。それを延々と繰り返している。見ている大人は、それとなく「いいかげんでやめなさい」というようなことを言いながら、「そんなことを繰り返して何がおもしろいんだろうね」とぼやいている。
 でも、その子にとっては、たぶん、おもしろいんだろうな、これ。
 ゲームをクリアしたら、また最初からやりたくなる気もちって、たぶんこういうところからつながってるんだろうと思う。
 で、思い出したのが、ラカン心理学についての解説書に出てきた、子どもの糸巻き遊びの話だ。小さい子が、糸のついた糸巻きを、引き寄せたり遠くにほうり投げたりを繰り返して遊ぶ。それがどういう心理学的意味を持つかという説明は忘れてしまったけれど、要するに、小さい子どもにとっては、目の前で存在と不在を繰り返すのがおもしろいという話だった。いままであったものが急になくなる。なかったものが急に現れる。それがおもしろい。「いないいないばあ」(NHKの番組ではない)で小さい子が喜ぶのも同じ心の動きからだという。この軽食店の男の子がやっていたのも、似たようなことなんだろうと思う。
 もしかすると、たぶん、こんな遊びを通じて、人間は獲得と喪失の感覚を身につけていくのかも知れないと思う。獲得したものを喪失する、しかしそれを拾い集めることでもとと同じような状態を獲得できる――という経験である。
 これも最近読んだ本に出てきた話で、古代エジプトの神話に、神オシリスは殺害されて身体をばらばらにされるが、妃神イシスがその身体を拾い集めて復活させるという話があるという。この神話には、女性は失われた生命を復活させることができる(子どもを産むから)という考えかたが入っていたり(たぶん)、農作物が食われても種をまけばまた作物が育つことへの驚きとか感謝とかが入っていたり(たぶん)するのだろうけど、それよりも原始的な層に「失われたものも拾い集めればもとのように戻る」という「喪失感の飼い慣らし」みたいな感覚があるんじゃないかと思う。
 で、その「喪失感の飼い慣らし」と一体になっているのは、「失ったものは永遠に失われて元に戻らない」ということに対する恐怖ではないか。その恐怖があるから、「そんなことはない、失われたものも拾い集めれば(糸巻き遊びならば引き寄せれば)もとのように戻る」ということを何度も何度も試してみるのだろう。
 古代中国の神話で、「太公望呂尚(本名は姜子牙だったかな?)をめぐる「覆水盆に返らず」という話がある。若いころ、太公望は超びんぼーだったので、妻が愛想をつかして出て行った。ところが、太公望は、周の文王・武王に見こまれてその天下取りに活躍し、諸侯(大名)になって大出世した。で、そのときになって若いときに出て行った妻が戻ってきて復縁してほしいとか言い出したので、太公望が盆(浅いたらいみたいなもんだろう)に入れた水を地面にぶちまけて、「これを盆に戻すことができたら復縁してやってもいい」と言ったという話である。
 まあこれもいろんな含意のある話で、少なくとも、英語の似たようなことわざ「こぼれたミルクについて嘆いてもしかたがない」とは違ったニュアンスがある。物理のほうでは「エントロピー」の説明とかにも使われるし。
 太公望呂尚自身は歴史書『逸周書』とかにも(もちろん『史記』にも)出てくる実在の人物で、文王を祖先とする西の中心王朝「周」に協調しつつも対抗する東の大国「斉」の王朝(春秋時代まで)の祖先と位置づけられていた……とかいう話については平勢隆郎さん(東京大学東洋文化研究所の先生らしい)の一連の研究を読んでください。私もhttp://www.kt.rim.or.jp/~r_kiyose/review/rv0513.htmで書評しました――というのは露骨な宣伝です。
 ともかく、これも、紀元前の中国にあった神話みたいなのが、太公望という有名人の話として結びついたものだろう。その根底にあるのは、やっぱり「失ったものは永遠に戻らない」ということへの恐怖感ではないだろうか。
 で、その話を、男女の縁の話にすることで、その恐怖感をやわらげているのではないか、という邪推もしてみたくなる。復縁できなかったのは太公望の妻が短気で先が見えない愚か者だったからで、もっと賢ければ復縁も可能だった。だから、たらいからぶちまけた水が(エントロピーが増大したために)もとに戻らないような「決定的な喪失」はそうめったに起こらないんだよ、という慰めが、そこにこめられているのかも知れないと思う(あと、平勢さん的に考えれば、太公望の妻を出した勢力を貶めるためのエピソード――とかいうことになるんだろうけど、このへんは平勢さんに任せます)。
 ともかく、そういう小さいころの遊びのなかで、「回復可能な喪失」と「決定的な喪失」の境界線みたいなのを身につけていくんだろうな。そして、小さいときのこういう遊びで飼い慣らした感覚が、後の死生観みたいなものにまで、たぶんつながっていくのだろうと思う。
 この子が大きくなったとき、自分が小さいときにこんな遊びをしていたことは、きっと覚えていないだろうけど。