猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

脇明子『魔法ファンタジーの世界』岩波新書、isbn:4004310202

 久しぶりにめぐり会った「懐かしい本」である。アニメとゲームは海外市場で日本が競争力を持つ分野ということになって、持ち上げられはじめてから、アニメとかゲームとかマンガとかライトノベルとかには、その状況に通じていない人たちでもいちおう肯定的に言及することが多くなった。ところがこの本はアニメとゲームとライトノベルに敵意をむき出しにしている。それも、具体的な作品名を一つも挙げず、最初から全面否定である。なんか噂に聞く稲葉三千男‐津村喬論争の稲葉三千男の議論を読んでいるみたいだ。
 べつにアニメやゲームやライトノベルを批判してもかまわない。でも、この本は、最初から「そんなものに出てくる魔法はご都合主義できっちりした設定などおかまいなしに作られている」とか「そんなものに出てくる魔法はしかえしやこらしめのためだけに使われ、それが肯定されている」とか決めつけの羅列である。ご都合主義の設定を並べ、復讐心や優越感の礼賛のためだけに書かれた魔法もののアニメやゲームやライトノベルになど私は出会ったことがない(設定だけずらずらと一か所にまとめて書いてあるようなものはありますけどね)。まあ、著者は東大の大学院を修了した大学教授なのだそうだし、そういう 学問のプロが根拠なしに雰囲気で発言するとも思えない ので、私の読書量とアニメを見る量が絶対的に不足しているんだろうな。
 ところで、この本では、「ナルニア国ものがたり」について述べたところで、「ターキッシュ・ディライト」(トルコ的な喜び)というお菓子に誘惑されるのは自然で、それは『アラビアンナイト』のエキゾティシズムやエロティシズムを想起させるからだと書いている(94ページ)。べつに欧米のオリエンタリズムにまみれた人がそう感じるのならば、それはそれでかまわないと思う。だが、日本の読者に紹介するばあいには、やはりそういう感覚がオリエンタリズムに由来することへの配慮ぐらいは必要ではないか(その偏見にまみれたトルコやアラビアのはるかな延長上に日本が想像されているのだから)。アニメやゲームやライトノベルで現実世界の暗黒面に子どもを触れさせるのは悪で、オリエンタリズム的な価値観に触れさせる本は「良書」なのだろうか。そうなんだろうな、何せ大学教授がそうお書きになっているのだから。
 また、この本では「ケルト」が一つのキーワードになっている。まあ魔法系の話をするときにケルトに注目するのはごく自然な流れだとは思う。ところが、ケルト的なものを「ケルト的だ」と認識しはじめたのは近代になってから、「ケルトマニア」と呼ばれる一群の人びとが活躍し始めてからのことらしく、学問的には「ケルト的」ということは一定の留保なしには使えないんだそうである。こういうことを書いているのは、同じ岩波書店から出ている原聖『〈民族起源〉の精神史』(isbn:4000268473)で、「じゃあどういう条件ではケルトという概念を使っていいのか?」ということはこの『〈民族起源〉の精神史』を読んでもいまひとつわからないのだけど、当然、そういうことは押さえた上で書いてあるのだろうな。大学教授の先生がお書きになった本なのだから。