猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

一昨日の権力論のつづき

 一昨日、「また明日……とか書いていると、明日書く時間がなかったりするんだよなぁ」と書いた(id:r_kiyose:20060802)ら、そのとおりになってしまった。やれやれ。
 そこで書いたのは、昔は、「権力」は、神とか王とか「自然」とか、何か人びとが生活している領域の「外部」から来ていたけれど、いまはそうではないという話だった。いまでは、「権力」は人びとの生活のなかから湧き出てきて、それがそこで生活している人たち自身を制約し束縛する。そのために、私たちは「権力とのつきあいかた」がわからなくなっている。
 昔ならば、「権力」は外から来ていたので、それを制約するためには別の「外」の力を借りればよかった。たとえば、「王の絶対権力は神から与えられている」と、王が「神」の力を借りてくれば、それに対抗する側は「いや、自然は王にそんな権力を与えていない」と、「自然」のようなものを借りてきて対抗することができた。王権神授論者フィルマーと社会契約論者ロックの論争の構図はそういうものだと思う、よく知らないけど。
 しかし、自分たちのなかから生まれてくる「権力」にはその方法は通用しない。
 あれ?
 なぜ通用しないんだ?
 ……ちょっと考えてみる……。
 えっと、なぜ通用しないかというと、まず、その「外」というものの虚構性がはっきりしてしまったからだろう(答えを思いついてよかったよかった)。昔は、「神」とか「自然」とかいうものが、人間の力ではどうしようもない絶対的な存在として存在すると信じられていた。ところが、現在では、少なくともヨーロッパや日本では、「神」や「自然」が人間の都合のいい「虚構」として作られたという解釈が広まってしまった。「イスラム原理主義」やそのほかの宗教回帰現象にしたって、一度は欧米的近代社会を目指し、その近代化がうまく行かなかったばかりか、貧困やら不公正やら社会の混乱やらの問題を生み出しているという実態に直面して、生まれてきている。本気に最初っから素朴に神を信じて疑わない人もいるだろうけど(そういう人はかえって原理主義には行きにくいと思うんだけど……それって偏見かなぁ?)、その少なくない部分は、「神」を虚構と見なす考えをいちどくぐって、少なくとも横目で見て、出てきているのだ。こういうところで、「原理主義」や宗教回帰の人びとの「神」論というのに興味があったりするのだけど、まあそれはしばらく置いておこう。
 そのうえで、私たちのなかから生み出された「権力」は、それに対抗する人びとと同じようにその「虚構」を都合よく利用する。「権力」が説得の論理として持ってくる「人間とはほんらいこうあるものだ」「社会とはこうあるべきだ」という論理は、「人間」とか「社会」とかいうもののありようを先に決めてしまっているという点で、昔の「神」や「自然」によく似た「外」からの論理というかたちをとっている。それが、「権力」に都合よく設定された虚構であることを暴いても、それは「権力」にとって打撃にならない。なぜなら、それは「権力」に対抗しようとする人たち自身にとっても都合のいい虚構のはずだからだ。「人間は健康に生きるべきものです」という「権力」の論理に、「それは都合よく設定された虚構の人間像だ」と言い返しても、「じゃああなたは健康に生きたくないのですか?」と切り返されると、反論するのはけっこう難しい。『自由を考える』に出てきた「キセルをする自由」とか「(単位の足りない学生が単位をごまかすために)大学の授業を同一の時限に二つ以上登録する自由」とかいうものをまじめに主張するというような滑稽な事態になってしまう。
 前の日記で採り上げた檜垣立哉さんの本によれば、ネグリとハートの「マルチチュード」論というのは、そういう「外」への幻想にきっぱりと見切りをつけ、内部の粗野さ、雑多なもの、洗練されていないものに抵抗の主体を見出すという戦略みたいだ。
 まだネグリ(とハート)の本は読んでいないのでなんとも言えないんだけど、仮にネグリとハートの「マルチチュード」論がそういうものだとすると、まず感じることは、「外」が完全に消滅した世界というのを構想すること自体の持つインパクトは認めるけど、そういう世界を現実の世界と考えることは、「外」に何の根拠もなく脱出路を求めるのと同じようにロマンチックな構想なのではないかということだ。それと、そうやって構想された「マルチチュード」がはたして「外」ではないのか、じつはそれは「神」や「自然」と同じような「外」のものとして構想されているのではないか、構想した本人たちはそんなことは考えていないだろうけど、どうなんだろう、ということも感じる。
 ということで、暇ができたら『帝国』と『マルチチュード』を読もうと思っているのだけど……買ってあるんだけど……『帝国』は正直に言って分厚さでびびるし、『マルチチュード』は上下2冊だもんなぁ。
 あとねぇ、儒教文化ってけっこう「特定の生きかたを強制する」面、「強制」とはいわなくても「強く推奨する」面があって、そういう儒教文化を持ってきた国ぐにの「生権力」の現れかたとか、フーコーの分析した西ヨーロッパとは違うところがあるかも知れないと思うのだね。もちろん儒教文化を持つ国・地域でもその文化はさまざまだから、一概には言えないのだろうけど。だから「フーコーの議論なんてしょせんは西欧中心主義」と切り捨てるつもりはないけど。あと、「マルチチュード」の概念は、網野善彦が提唱した「無縁」概念ともつながる面を持っているように感じるんだけど、そういう面からの検証は行われていないのだろうか? 東アジア文化や日本史から提起された概念と、フーコーネグリの議論をつき合わせることは、日本でこういう問題を論じている私たちが寄与できることの一つではないかと思うのだけど、どうなのだろう?