猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

檜垣(ひがき)立哉(たつや)『生と権力の哲学』ちくま新書、isbn:448006303x

 現代世界の権力論を、フーコーから始まって、ドゥルーズ(+ガタリ)、アガンベンと渡り、ネグリ(+ハート)の「帝国‐マルチチュード」論へと結びつけるという構想の本である。
 発想は東浩紀id:hazuma)・大澤真幸自由を考える』(NHKブックス、isbn:4140019670)と並行していて、アガンベンの「ムーゼルマン」論*1や「掟の門」論が出てくるのも共通し、議論の進んでいく方向も似ているのだけれど、この本には東さんや大澤さんへの言及は一つもない。ちなみに、WWFさんの夏の本の原稿のために読みはじめたのだけど、締切に間に合わなかった本である。
 私はこの本を読んでようやく「生権力」という概念が理解できた。「生権力」というのは、たんに人を「生かす権力」なのではない。近代までの王の権力や近代国家の多くの権力が「権力の命令に違反した人には死とか苦痛とかを与える」という権力だったのに対して、「生権力」というのは「権力の命令に違反するとか違反しないとかにかかわらず、いや、権力の命令の存在そのものがあいまいな状態で、すべての人に特定の生きかたを強制する」権力だと理解するのがいいらしい。『自由を考える』や『文明の内なる衝突』や『波状言論』を読んでいながら、いまごろこんなことがわかるというのは私が鈍いから?
 フーコーは、近代以後の権力について、「規律訓育型権力」(東さんの訳語では「訓育」が「訓練」になって「規律訓練型権力」)論に始まり、『性の歴史』を書きつづけるなかで「生権力」論、「生政治学」論とさまざまな類型を提起していくという。で、最後には、「牧人司祭」型権力とかのいろんな権力類型が出てきてわけがわからなくなる。少なくとも私にはわけがわからなくなった。それをドゥルーズが整理し、アガンベンが「ただ生きているというだけの生」(東さん的な表現をすれば「動物的な生」ということになるだろう)としての「ゾーエー」と「人間的な生」としての「ビオス」という古典時代ギリシアの概念で権力論の再構築を図る。さらに、ネグリが、アガンベンの作業と並行しつつ、フーコードゥルーズ(+ガタリ)の議論を参照しながら「帝国」論・「マルチチュード」論を組み上げるという筋書きである。
 この本全体から受けたいちばん強い印象はというと、やっぱり「外部」とか「他者」とかいうものの取り扱いの難しさ、かな? 「規律訓育型権力」とか「生権力」(ちなみに東さんのいう「環境管理型権力」ということばはこの本には出て来ない)とかが表に出てくる以前の典型的な権力は、人びとの生活の「外」からやって来ていた。「外」から来る権力に抵抗することは、命がけかも知れないけれど、少なくとも目標を定めるのはたやすい。ところが、「規律訓育型権力」とか「生権力」とかになると、それは「外」からではなく、生活している人びとの内部から権力がやってくることになる。そうなると、「規律訓育型権力」自分から発した権力によって自分が束縛され、息苦しい思いをしながら生きなければならないという事態が起こるようになる。そういう苦痛を「外」から来る権力のせいにすることはできない。「規律訓育型権力」や「生権力」の下では、自分が確かに望んでいる生きかたを強制されることの苦痛というものといつも向かい合わなければならないのだ。そういうなかで、アガンベンなどによってぎりぎりの「外部」とされるのが「剥き出しの生」といわれる「人間が動物としてただ生きている状態」だというのだが、正直に言ってこのあたりの議論は難しくてよくわからなかった。読んでいるときにはわかったつもりになっていたが、ここで説明しようとしてみても表現を思いつかないということは、つまりはわかっていないのだろう。
 このへんは、ラカンの「現実界」の難しさみたいなもので、この「むき出しの生」というのが「言語が成り立つ以前の人間の生」*2、つまり、東さん的に言うなら「ただの動物としての人間の生」とされているわけだから、言語にして表現すればそれはぜんぶ不完全ということになる仕組みをあらかじめ持っている。それが無視できない重みを持ってきたのが、第二次世界大戦以後の世界であるというのがアガンベンの議論らしい。
 ともかく、こういう「むき出しの生」が政治の表面に出てきたことが、政治についての議論のやり方を難しくしている。たとえば「生命の尊厳」というような概念もあたりまえのこととして使えなくなる。人間は動物の「動物的な生」すべてに百パーセントの尊厳は認めていないし、そうである以上、人間自身の「動物的な生」についていきなり「尊厳」を想定することの虚構性はすぐにバレてしまう。このことに限らず、「外部」が存在しないということは、「自然法」とか「天賦人権」とかいう「外部の権威」によって、現に目の前にある政治に抵抗できないことを意味する。というより、「自然」とか「天」とかが人間に与えたものという理屈は、たとえば「人間は、健康に、自分自身の生命に最大限に配慮して生きるべきである。人間としてそれは当然のことなのだから」という理屈として「規律訓育型権力」・「生権力」によって先に使われてしまう。
 で、この本では、デジタルネットワークによって全世界がつながりあって、全世界が「外部」を持たない「帝国」へと進化し、それに対して、「言語が成り立つ以前の人間の生」(を生きる人びと)が同じくデジタルネットワークを通じてつながりあって成り立つ「マルチチュード」が「帝国」に抵抗するというネグリの「帝国‐マルチチュード」論が、それが楽観的な議論であること、なお克服しなければならない穴が多いことなどを注意したうえで、最後にけっこう好意的に紹介される。権力に抵抗したいと思えば、「外部」から理念とかを借りてくるというやり方はもう無効で、「内部」での「動物的な生を生きる数多くの人びと=マルチチュード」が抵抗の「主体」になるというわけだ。
 このへんの議論はしばらくいろいろと考えてみたいネタである。というわけで、また明日……とか書いていると、明日書く時間がなかったりするんだよなぁ。

*1:この本で端的に「ムスリム」と訳しているのは訳しすぎ? 少なくとも一般的な「イスラム教徒」という訳語を飛ばして「回教徒」という訳語だけを示しているのは疑問、というより、いま「回教」ということばがどれだけ通じるのだろう?

*2:「言語が……」は「理性が……」などと言い換えてもいい。理屈で人間どうしが理解しあうような状態に至る以前の状態を想定し、そういう状態での人間の生である