猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

規律訓練のアウトソーシングとしての環境管理

 東さんの自由論・権力論のポイントの一つに「近代の規律訓練型権力からポストモダン環境管理型権力へ」というものがあります。
 「ポストモダン」時代(1990年代以後)には、人間が「近代的人間」の人間的規範だけではコントロールしきれなくなって、「人間」の層と「動物」の層が分離したというのが東さんの基本的構想です。そこに、「近代的人間にならなければならない」という意識が、それとは違う方向に向かう欲求を「抑圧」していた「(精神分析用語としての)抑圧の時代」としての近代から、「人間」の層が「動物」の層の欲求をコントロールしきれなくなり、「動物」の層のさまざまな欲求が相互の関連も脈絡も薄いままに表に出てきてしまう「解離(多重人格)の時代」としての「ポストモダン」時代へという構想ですね。
 そこに、フーコーの指摘した「規律訓練型権力」から、「ポストモダン」時代への「環境管理型権力」への移行が起こっている。「ポストモダン」時代でも、「人間」の層は、すべてをコントロールはできなくなったけれど、依然として有力な層ではありつづける。そして、その層では「規律訓練型権力」は有効でありつづける。しかし、近代的人間の規範ではコントロールできない「動物」の層はどうするのか。それをコントロールするのが「工学」であり、「環境管理型権力」だというわけですね。
 「環境管理型権力」というのは、私はよく知らないんだけど、「社会のマクドナルド化」で知られる権力で、「マクドナルドでは客の回転をよくするために椅子を堅くしている」という話らしい。つまり、「出て行ってくれ」と言うわけでもなく、「ファーストフード店では飲食が終わったらさっさと出て行くものですよ」と教育を通じて教えこむ(これが規律訓練型権力、つまり「しつけ型権力」……ということになります。いや〜、フーコー読んだのずいぶん昔だし、もともとわかってなかったうえに忘れてる……)のでもない。椅子の座り心地をわざと悪くして、自分でも意識しないうちに、飲食が終わったら早めに出て行くというふうに仕向ける。そういう身体の「快/不快」を利用して身体レベル(つまり「動物」レベル)で人を動かそうとする権力が東さんのいう環境管理型権力です(だと思います)。
 環境管理は、身体のレベルに訴えるので簡単なように見えるけれど、実際にはそうではない。けっこう緻密な調査と計算が要求されるわけです。つまり、ふだんから客が多いわけではない店で椅子を堅くしてもますます店が寂れるばかり、だからといって、客が少ない店の椅子を軟らかくしたら客が増えるかというと、そんなこともあまり期待できない。ほっといても客が次から次へと来るマクドナルドだから、やって意味があることです。しかも、最初から「あそこはちょっといるだけでも居心地が悪いから」と思って客が来なくなってしまってはいけない。調査をして、計算をして……という過程が必要なわけです。それには「工学」の発達が不可欠だ。ということで、東さんは、「ポストモダン」は、よかれ悪しかれ、「ポストモダン」時代は「工学」の時代になると論じています。
 いや〜マクドナルドの椅子って、ほんとに長時間座っていると疲れるのか、たとえば、自宅の椅子と較べて疲れやすいのかとか、いっぺん試してみたいという気がちょっとぐらいはあるけれど、「そんな暇、どこにあるんだ?」的なところが実情です。けっきょくそこが「工学的計算」の産物なんだろうな。少なくとも、私は、十分に暇があるときにはマクドナルドには行かないからね。
 実際、もっと高級なお店の小上がりで、正座したりあぐらをかいたりしながら酒を飲んで、飯を食って……というのとマクドナルドの椅子とで、単位時間あたりどちらが疲れるか?
 それはともかく。
 で、この「規律訓練/環境管理」という区分自体、非常に「近代」的な「精神/身体」という区分を前提にしており、それ自体は「近代」イデオロギーに絡め取られたもの、したがって「ポストモダン」でも何でもないという批判はあり得ると思います。「近代」とはともかく「精神」が偉い時代で、「ポストモダン」になると、「精神」の偉さが地に落ちて「身体」の身勝手が押さえられなくなった時代――と言ってみても、「ものの見かた」の枠は近代と変わっていないじゃないか、という批判ですね。
 でも、私は、まあそういう批判は、あるということだけ認識しておくというくらいの興味しか、現在はありません。「精神/身体(肉体)」という区分、そして、その単位となっている「個人」の自立性というような想定が「近代」に特徴的だということは否定しないけれど、現状では、それはそれでよくできた区分であり想定であるといちおう考えますし。
 で、それより、ふと思いついたのが、「規律訓練」の実態って何?――ということです。
 理想的な「規律訓練」と言えば、なぜ「規律」が存在しているかを理解して、それに自発的に従うというあり方だと私は思います。孔子が自分の老年について語ったように、自分の好き勝手に行動しても、自ずから規範からはみ出さない。そういうのがたぶん「規律訓練=しつけ」の理想像のように思う。つまり道徳的なのですね。
 しかし、「規律訓練」型権力というのは、必ずしもそうでなくていい。「納得はできないけれど、ともかくこの規律に従っておかないといろいろと困ることになるから」ということで自分を規律しているのでもかまわない。フーコーの引いている(らしい。私は読んだはずだけど忘れた)近代的監獄「パノプティコン」なんか、「囚人が悔い改めて悪いことをしないようになる」のを目指しているのではない。「いつ見られているかわからないからやばい行動はやめよう」と思うように仕向ける。べつに道徳的に改悛したってかまわないけれど、道徳的には少しも改善されていなくてもかまわない。個人のなかに「規律」コントロールを埋め込めばいい、それの役割を「道徳」が果たしてもいいけれど、そうでなくてもいい。そういう仕組みですね。
 これは理解できることで、「近代」社会というのは、思想の自由が原則ですから、特定の「道徳」を押しつけることはいちおうできないことになっている。しかし、「道徳」以外のところで「規律」してもいいんだということにしておけば、その「自由」の原則にはいちおう引っかからない。
 で、「環境管理」型権力というのは、その「道徳として内面化しているわけではない規律コントロールの役割」を外注化したものなのではないか――というようなことを考えるわけです。
 と考えるのですが、明日早いので(夜になっていきなり仕事が増えた。もう勘弁してよって感じ)、久々にはてなダイアリーに出てきたにもかかわらず、今日はここまでです。