猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「繰り込み」とそれをめぐる「ゼロ年代」的な余談

 たとえば、電子が空間に存在したとき、電子の質量や電荷(帯電している電気の量)をどう測ればいいのでしょう? そんなのは簡単で、電子一個分の質量と電荷を測ればいい――かというとそうはいかない。なぜかというと、電子は、電荷を持っているせいで、光子(光の粒子。「電波の粒子」でもあり、「電磁波の粒子」でもあり、「エックス線の粒子」とかでもあります。「ガンマ線」という放射線の粒子でもあるので、光子を表現するときには記号として「γ」を使うようです)を絶えず吸収したり放出したりしています。で、エネルギーを持った光子は、電子と陽電子の対に分かれたり(=対生成したり)、その電子と陽電子がまたひっついて(=対消滅して)光子に戻ったりということを繰り返します。その過程でできた電子も陽電子も、同じように光子にエネルギーを与えますから、それがまた周囲に電子と陽電子の対を作ったり、また消えたり、そこで生まれた電子と陽電子がまたその周囲に……と、きりがありません。ということは、電子が一個あると、そこからエネルギーを得た光子がその電子の周りで無数の電子や陽電子を無数に作ったりまた消したりということを繰り返していることになる。そうすると、電子一つを見ているのに、周囲でわさわさと生まれたり消えたりしているほかの電子や陽電子まで計算に入れなければならなくなり、計算上は電子の質量や電荷は無限に大きくなってしまいます。でも、実際にはそんなことはない。じゃあ、計算をどう実態に近づけるか、という問題が出てくる。その方法が「繰り込み」という方法です。朝永振一郎博士がノーベル賞を取ったのがこの「繰り込み理論」の発明によるもので……要するにとても難しい理論です。
 ところで、「客観的な事実」があるという議論に対して、「ポストモダン」の人たちは「客観的事実などというものはない」と反論します……って「ポストモダン思想」をよく知らないからそうなのかどうかよくわからないけど、なんかそう反論するように私は思います。
 つまり、「事実」は人間が認識してはじめて事実として知られるわけだけれど、そのとき、認識した人間の感性とか、性格とか、その人がどういう経験をしてきたかとか、もしかすると国民性とか民族性とか、さらにもしかすると認識したときに気分がよかったか最悪な気分だったかなど、そういう要素が認識にはどうしても入ってしまう。だから「認識された事実」には「認識した人」による「偏り」がどうしてもできてしまう。しかも、その人からその「事実」を知らされた人は、またその人の「偏り」を「事実」に加える。「偏り」や「立場性」は「事実」について知っている範囲が広がるにつれて拡大する一方であり、減ることはない。だから、世のなかに知られている「事実」は「偏り」をまぬがれられないのであって、「事実」について語ることは「偏り」や「立場性」を抜きにはできないのだ、という議論が出てきたりする。
 私自身もそういう議論をすることがあるし、そういう批判も有効だとも思う。でも、何についても「客観的な事実は存在しないのだ」とシニカルな態度を取ってしまうならば、それは「電子は周囲の空間に影響を与えて無数の電子‐陽電子対を生み出すから電子の質量も電荷も測定できない」というのと同じ議論だと思う……のは乱暴ですか? 乱暴だよなぁ。うん。
 でも、社会思想には社会思想の「繰り込み」の方法があって、それを考えてみるべきなんじゃないかな、とも私は思ったりするわけです。じゃ、どういう方法があるんだと言われると、なかなか答えにくいけれど。でも、私の意見の「偏り」であることは承知の上で書くと、物理学者が無数の電子‐陽電子対の影響を取り除いた電子の質量や電荷を定めようとした「こだわり」に較べると、「すべては相対的だから、客観的な事実が何かなど言えるはずがない」という「社会思想」の考えはなんかすごく淡泊だという印象を持ちます。
 それを「近代」と「物語」の関係の議論に適用すると、「近代」が終わったから「大きな物語」が存在しなくなったと言ってそこで「大きな物語」への探索を終わりにしてしまうのはあまりに淡泊じゃない?――ということになります。自明の「大きな物語」は存在しないことが明らかになったかも知れない。でも、そこからさまざまな要素を「繰り込み」することで、もしかすると存在するかも知れない「大きな物語」を再構成してみる試みはあっていいんじゃないか、と思ったりするわけです。
 私は宇野常寛さんの「ゼロ年代の想像力」論には、「ほんとうに1990年代と違う2000年代の想像力などというものがあるのか?」と懐疑的なのですが、宇野さんの「物語」へのこだわりについては、私は、少なくとも心情的には支持したいと思っています。「大きな物語」はないとしても、無数に存在する「小さな物語」からの「繰り込み」は少なくとも試みてみるべきだと思ったりするからです。コミケで拝見した宇野常寛さん、とてもまじめそうで朗らかな好青年でしたし。
 ……って「ポストモダン」とか現代社会思想とかに関心のない人には何の話かよくわからないかも知れませんけど……すみません。