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浅井祥仁『ヒッグス粒子の謎』祥伝社新書 isbn:9784396112905

 「ヒッグス粒子らしい新粒子」を発見したLHCのアトラス実験班に参加している日本人研究者がヒッグス粒子をめぐるさまざまなものごとについて書いた本です。ヒッグス粒子について一般向けに書かれた本はほかにもありますが、この本は出版が「ヒッグス粒子らしい新粒子」検出後なので、最も新しい本の部類に入ると思います。
 「ヒッグス粒子」の検出と言わず、「ヒッグス粒子らしい新粒子」の検出というのは、それが理論的に想定されているヒッグス粒子の性質と一致するかどうかの検証がまだ続行中だからで、その検証の結果しだいでは「標準理論」を超える物理学理論への展望が開けるのだそうです。ま、新粒子の発見は、「検出」と見られる現象が偶然のいたずらである確率がほぼゼロに近い状態なので、とりあえず「ヒッグス粒子が発見された」と言っていい……のでしょう。
 素粒子物理学についてよく知らない一般の人にもよくわかるようにというこの本の工夫はなかなかなものだと思います。「本来は質量を持たないはずの粒子が、環境(ヒッグス場の状態)が悪いために質量を持ってしまう」というのを、「うちの子は悪くないが、環境(学校とか友だちとか)が悪いから悪くなってしまう」という「お母さんの論理」になぞらえてみたり、量子力学の不確定性によって大質量の粒子が確率的に出現する(質量のない光子から質量を持つ電子と陽電子が生まれる、軽い電子が巨大な質量を持つW粒子を放出してニュートリノに変わる、など)ことを「短い時間ならばウソをついてもいい」と表現してみたりしています。こういう「たとえ」は誤解の原因になることも多いのですが、正確に記述しようとしても誤解は起こると思うので、私はいいんじゃないかと思います。
 とくに、量子力学的な不確定性で、最初の粒子の質量と運動エネルギーを足しても生まれないはずの大質量の粒子が生まれてしまうのを「ウソ」と表現するのは、現実に起こっている現象なので「ウソ」というのは不適当だろう、と思ったりもします。でも、たいていの場合はそういう現象が起こってもだれにも気づかれないままに終わってしまう。たとえば、光子はたえず電子と陽電子に分かれ、その電子と陽電子がくっついてまた光子に戻り、その過程を繰り返して光は私たちの目に届いたりするのですが、途中の電子や陽電子の存在は気づかれることはありません。でも、それが「霧箱」という検出装置のなかだったりすると、光が電子と陽電子に分かれるのがときたま見えてしまったりします。しかも、検出装置のなかで検出されてしまうと、光子から分かれた電子と陽電子はもとに戻りません。しかも、陽電子はともかく、電子はその先に崩壊のしようがないので電子のままですが、もっと大質量の粒子ができてしまった結果、その粒子がもともとのエネルギーからするとできるはずのない別の粒子を生み出してしまう。ヒッグス粒子の発見にもこの「ウソ」の過程(ヒッグス粒子の質量では生み出せるはずのないトップクォークと反トップクォークの対ができる)が重要な役割を果たしています。つまり、たまにその「ウソ」(不確定性により質量が大きな粒子が生じる)は「バレ」て現実を変えてしまう(その大きな粒子が崩壊して別の粒子が生じる)。そして、ときにはそれが新粒子の発見などの大騒動に発展する。「気づかれなければ(観測に引っかからなければ)そのままで終わってしまうが、そしてたいてい気づかれないまま見過ごされるが、たまにバレると現実を変えてしまう」という性格は、あんがい「ウソ」という類比がぴったりなのかも知れません。
 しかも、そういう書きかたをしながら、この著者は、物理学的な順番を飛ばさずに書いている、きちんと説明している――という印象を私は受けました。私は物理学がわからないから「印象」以上のことは言えないのだけれど。
 素粒子物理学に限らず、理系の研究者は、自分の研究について一般の人に理解してもらおうといろいろと工夫もし、努力もしていると感じます。世のなかを「文系」・「理系」にあまりにはっきり分ける考えかたはそんなに有効でないと思うし、好きでもないのだけれど、自分の研究内容をできるだけ多くの人にわかってもらおうという熱意は、少なくとも最近は理系の研究者のほうから強く感じます。
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