猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

ヒッグス場とヒッグス粒子は違う

 この本で私がはじめて知ったのは「ヒッグス場とヒッグス粒子は違う」ということでした。
 私は、これまで、ヒッグス場というのはヒッグス粒子がびっしりと分布している「場」のことだと思っていました。それで「ヒッグス粒子に質量がある」ということがなかなか理解できなかったのです。ヒッグス場が宇宙全体に分布しているということは、宇宙全体にヒッグス粒子が詰まっているということで、そのヒッグス粒子に質量があれば宇宙空間はとてつもなく重くなってしまうはずです。
 しかし、浅井さんの説明で、「ヒッグス場は宇宙全体に分布しているけれども、そのヒッグス場から「ヒッグス粒子」というものを単独で取り出すためにはエネルギーが必要で、そのエネルギーの大きさがヒッグス粒子の質量として現れる」ということだと理解できました。つまり、ヒッグス場のなかでは、「ヒッグス粒子的なもの」が他の粒子に質量を与えるという役割を果たしているのだけれど、そうやって「場」のなかで黙々と役割を果たしているあいだは、「ヒッグス粒子の質量」というのは問題にならない。しかし、その裏方の「ヒッグス粒子的なもの」を表舞台に引き出して紹介しようとすると、その「場」から引っぱり出すのにエネルギーが必要で、そのエネルギーは山の手千一周ぶんぐらいの巨大さの加速器を使わないと出ないぐらいに大きいのだ、ということのようです。
 これは、私もまだ「わかったようでわかっていない」あいまいな状態です。たとえば、電磁場というのは、いくつもの「もの」が光子をやりとりして電磁気力(電磁相互作用)を及ぼし合っているから電磁場なのであって、「光子はどこにも見えないけれど電磁場は存在する」ということがあり得るのか。でも、このばあい、光子には質量がない。だから、「ヒッグス場」と「ヒッグス粒子」との関係と同じように、「光子場」(電磁場)から光子を取り出すために必要なエネルギーが光子の質量なのだと考えるとしても、それはゼロということになる。では、重力場でたとえようとしたら、重力については重力を媒介する「重力子」がまだ見つかっていない状態なので、たとえようがない。しかも、「ヒッグス場からヒッグス粒子を取り出すために必要なエネルギーがヒッグス粒子の質量だ」と言ったばあい、そのヒッグス粒子に質量を与えているのもヒッグス場だということになるのですから……このあたりで私の思考が活動限界に達してしまいます。質量のある粒子が媒介する相互作用としては「弱い相互作用」があり、「弱い相互作用」がわかれば「ヒッグス場とヒッグス粒子」の関係についてもよくわかるのだと思うのですが、私には「弱い相互作用」もあまりよくわかっていない。
 ともかく、「ヒッグス場」のなかでふだん働いている「ヒッグス粒子的なもの」は質量を持たない。けれども、それを「ヒッグス粒子」として取り出すには、「ヒッグス粒子」の質量ぶんのエネルギーが必要だ。しかも、「ヒッグス粒子」(らしい新粒子)を取り出せたことで、この世のなかに「ヒッグス場」がじつはまんべんなく分布していたことが証明できた、ということのようです。