猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「神から条件つきで与えられたもの」としての自由

 ここで、重要なのは、ロックが「王位は神から与えられる」ということを否定したからといって、ロックは「神」を否定するつもりはまったくなかったということです。
 訳者「解説」によると、今回の翻訳の意図も、この政治権力をめぐる論争がまさに「神学論争」という本質を持っていたことを明らかにすることにあるようです。
 ロックは、人間は一人ひとりが「神様の作られたものである」という信念を強く持っていた。だから、ロックは人間の「自由」を主張するのですけれど、その「自由」には「神様にそむく自由」も「神様を否定する自由」も入っていない。そんなものがあっては困るわけです。むしろ、人間の「自由」というのは、人間として果たさなければならないことを十分に果たせるように、神様が与えたものという位置づけになるのではないかと思います。
 だから、神様を信じるがゆえに、逆にフィルマーの「王権神授説」というのはロックにとって認められないものになる。まず:
 神様しか持っていないはずの絶対的支配権を、いかに「最初の人間」であっても、神様がアダムに与えるはずがない。
 また:
 「王権神授説」の考えかたをとると、王には神と同じような絶対的支配権があることになり、「王も神様にしたがって生きるべきだ」という点があいまいになる
 臣下や国民も、神だけでなく王の絶対的支配権にも支配されて生きなければならないことになり、人間はまず神様にしたがって生きるべきだという点も危うくなる
ということがある。さらに、
 フィルマー卿は、旧約聖書をきちんと引用しておらず、自分にとって都合のよい仮定を適当に織り交ぜることで、自分に都合のよい議論を、あたかも聖書に即したもののように組み上げている
ということも、ロックにとってはがまんがならなかったのかも知れません。
 ただ、最後の点でおもしろいのは、「フィルマー卿の言っていることは聖書のどこにも書いていない」ことを何度も指摘しているロック自身が、自分の「人間は自分の生を守る義務と、そのための権利を神様から与えられている」という説については、「聖書には書いていないけれど、そういうものが人間一人ひとりに与えられているのは確実である」という立場で議論していることです。
 フィルマーは、神様は、この世に「王」のような特権的な人間を認めて、その人に大きな権力を与えたと見る。それは、一般国民を権利のない状態に置いたといえばそうだけど、逆に言えば、それは「王様に従ってさえいればいい」というイージーな状態だともいえる。ロックは、神様が義務を与えたのは人間全員であって、だから、人間が一人ひとり自分で「神様に従うにはどうすればいいか」を考え、ほかの人間とも議論して、神様に忠実に生きる生きかたをしなければならないと考える。ロックのほうが、一人ひとりの人間にとっては「厳しい生きかた」を要求しているとも言えるわけです。また、ロックの立場からすると、神様は人間の絶対的な支配者であり、その神様が人間に「自由」を与えた以上、人間は「自由」を捨てることはできない。「自由」から「自由」になることはできないということになります。
 ロックの『統治二論 第二論』のほうは「自由」を論じた古典と位置づけられているわけですが、少なくともロック自身の議論では、その「自由」には「神に与えられた義務を果たすため」という条件がついていたことは、「自由」を論じるときにいちおう押さえておいたほうがよい点なのかも知れません。