猫も歩けば...

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「生命」と探偵小説

 前回の続きです。
 で、そんなことで、『すべてがFになる』の瀬名秀明さんの解説はやっぱり優れていると思う。
 「解説」という以上、作品を評価するためのデータ――べつに数値という意味ではなく――を挙げているのがあたりまえだと思います。で、瀬名さんの解説は確かにそうなっている。
 それと、『すべてがFになる』では「生命」ということが作中で話題になっています。で、これに関連することでも、さすがに瀬名さんの解説は優れている。もちろん、だからこそ瀬名さんに解説の依頼が行ったのだろうけれど。
 もうちょっと具体的に書くと、「生命」の定義は難しいという話が小説の最初のほうに犀川助教授ら雑談の話題に出てきます。
 また、コンピューターウィルスの話がある。いまから読むと「出所不明のファイルをフロッピーでもらってくると感染するよ」という、すごく牧歌的な話だったりするのだけど。あと、これもいま読むと「マックがウィルスに感染する」というのが斬新に感じたりもします。
 ともかく、この話の一部として、コンピューターウィルスに生命はあるのか、自分の手を離れて自分で増殖していくウィルスを作り手はどう思っているのだろう、という話も少し出てきます。自然のウィルスにしても、細菌と違って、生きている細胞に取りつかないかぎり生命体として活動しないのだから、「生命かどうか」の境界にある存在で、そこまで広げてもおもしろいですけど。犀川助教授が、生命論やウィルスについて語っている部分は、押井守→『スカイ・クロラ』→森博嗣という入りかたをした私には、『パトレイバー』劇場版第一作や『攻殻機動隊』を思い起こすところでもあって、なじみ深い感じがしました。
 ちなみに virus はラテン語で単なる「毒」のことで、「ヴィールス」よりも「ウィルス」のほうが古典読みに近い。それで「ウィルス」という日本語読みは、古典発音主義のラテン語学者には概して好評です。しかし、私自身は、子どものころに家で「ビールス」と教えられたので、いまだに「ウィルス」よりも「ビールス」と言われたほうが怖い病気になりそうで怖い感じがします。でも「コンピューターヴィールス」とか言われても何かピンと来ませんね。人間に取りつくのは「ビールス」で、コンピューターに取りつくのは「ウィルス」という語感が私のばあいにはできてしまったみたいです。どうでもいいけど、ひさびさのラテン語ネタでした。
 で、瀬名さんは、「解説」で、森博嗣さんが「生命」を根本から考えているところが「理系」的だと書いている。たとえば、「人が人を殺したいと思うようになるのは、その人自身が何か抑圧された経験があるからだ」というような、読者が探偵小説を読むときに持っているであろう「お約束」を、森ミステリは問い返す。「生命は尊い→その尊い生命を奪う殺人は悪だ」ということを「お約束」として、その悪人を捜したり、どうして悪を犯さなければならなかったかという動機を捜したりするのが普通にミステリの読者が期待する「ミステリの生命観」だろう。でも、ほんとうに問う意義があるのは、その前の「お約束」そのもののはずだ。そこを考えるのが「理系」的だと言うわけです。
 たしかに、「生命は尊い」と言いながら、私たちは「生命」を定義することもなかなかできない。定義もできないものがどうして「尊い」といえるのか?
 また、定義するといろいろへんなことが出てきてしまう。「生命は尊い」のならば、家畜の生命も尊いはずだけれど、だからといってベジタリアンになる人は少ない。「生命は尊い」のだから、自分の身体の中でさかんに増殖している病原菌さんの生命も絶ってはいけないと考える人はさらに少ない。また、生命は自己増殖する能力だと言ったら、たとえば、さっきのコンピューターウィルスとかは自己増殖するけど「生命」なのかという問題が出てまる。また、生きていないのが明らかな「もの」でも、自分のたいせつにしてきたものを壊されたら、生きものが死んだときより悲しかったりします。自分の愛着の湧いた相手でも、無生物ならば「生命」はないのか?
 そういう「生命」を問い返す場として、「人が人に殺される」という事件を中心に描く探偵小説は、たしかに有効な方法なんだと思う。でも、探偵小説で「生命」そのものが描かれることはたしかに多くはないと思います。で、『すべてがFになる』は確かに「生命」についてオリジナルなアプローチをしている。それも、この本で描かれているほかの要素と同様に、いくつかの面からそのテーマに迫るような構成になっています。
 それができる能力を「理系」的だというのであれば、私もそういう能力は身につけたいと思っています――と私は前に書いたわけです。でも、やっぱり、難しいとは思うなあ。