猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「ゲーム」としての探偵小説

 私は、高校生のころ、探偵小説を、作者と読者の犯人当てゲームだとする考えかたに強い反発を感じていました。それは、たぶん、そのころの私の国語の先生の影響だったのでしょう。小説とは人間の心の動きを描くものであって、娯楽のためのものではないという教えを信奉していたのです。でも探偵小説は好きだった。だから、私は、探偵小説でもすぐれた探偵小説は人間の心をちゃんと描いている、謎解きがよいのではなくて、そこがいいのだなどとうそぶいていました。私がその国語の先生の授業の優等生だったことと、そのころたまたま読んだ謎解き探偵小説がくだらなかった(だれの作品かは書きませんが)ことがあって、そんなふうになっていたのでしょう。
 現在ではそんなことは考えません。探偵小説は作者と読者の謎解きゲームでいいと思っています。それに「作者と読者のゲーム」性は探偵小説だけでなくてたいていの小説にあるものだと思う。私は詩はめったに読まないけれど、詩にもあるでしょう。読者が考えもしなかったことを開示してみせるのが「文学」の一つの性格だと私は思います。探偵小説はその性格が際立っているだけだと見ることもできるでしょう。
 だから、探偵小説が「謎解きゲーム」である必要もいちおうはないわけで、「謎解き」が破綻していても、読者の考えもしなかったことを開示してくれるのであればそれはそれでいい作品なんだろうと思います。
 探偵小説草創期の探偵小説には、それが確立した後の基準からすれば、謎解きの手がかりが十分に示されておらず「アンフェア」なものがいくつかあります。でも、じゃあおもしろくないのかというと、たしかにおもしろくないのもあるけど、いま読んでもおもしろいものもある。当時の読者はもっとおもしろいと感じただろうなと思う。作品名が書けないので具体的に書けないけれど、謎解きがあっけなくて「アンフェア」でも、たとえば、その当時のイギリスやアメリカの都会の人たちにとっての「異界」・「秘境」だった世界のありさまが描かれていれば、その当時の人には十分に興味深かっただろうと私は想像します。「文明世界で知られていない毒物」などを使うのは、現在の基準ではアンフェアもいいところだけれど、19世紀末から20世紀の最初のころまでは、まだそういうものが現実的な「恐ろしさ」を呼び起こしたのでしょう(現在でも、土の中の微生物が作り出す物質を人間がすべて知っているわけではないから、微生物研究者を絡ませれば「未知の毒物」トリックも可能かもよ)。また、探偵小説というものが生まれた初期には、「探偵小説に出てくる探偵」という人物像そのものが興味を引いたということもあるらしい。「初期の探偵小説は探偵自身の謎が魅力だった」と笠井潔さんが指摘していたと有栖川有栖さんの文章で読んだことがあります。手もとにないので確かめられないけど、『シャーロック・ホームズの事件簿』が創元推理文庫で出たときの解説文じゃなかったかな? 当時は意識しなかったけど、いま思えば豪華な顔合わせだ。
 でも、現在の「本格」探偵小説についていえば、やはり普通は「謎解きゲーム」として成立していることが探偵小説の最低限の条件ではないかと思っています。読者に手がかりをすべて与えたうえで、作者(作中の探偵)が指摘する犯人が犯人(真犯人)であり、しかもそれ以外に犯人はあり得ないということを作中で論証している必要がある(まあ、東野圭吾さんの『私が彼を殺した』のように、わざとそれを書かないという方法もあるわけだけど)。犯罪があって、「謎解き」として成り立っていない小説はもちろんあっていいけど、それは探偵小説・ミステリーとは別のものと考えていいでしょう。
 探偵小説のおもしろさは、一つのできごとについての「複数の物語の可能性」というのにあり、それが「一つの物語」に絞られていくところにあると思います。一つの事件と(一つでないこともあるけど)、それに繋がる可能性のあるいろいろな手がかりから、何人かの容疑者がそれぞれ犯人であるようないくつもの「物語」が構成できる。そのなかから、犯人以外の容疑者が犯人である「物語」を一つずつつぶしていって、真犯人が犯人であるという「物語」だけを残す。そのとき、ほかの容疑者が犯人である可能性を示していた「物語」が大きく読み替えられて、それが真犯人を示す「物語」の一部として成り立つのであれば、それはよい探偵小説ということになるんじゃないかと思うのですね。
 まあ、自分で書かないから、こういう偉そうなことが書けたりするんだろうな、とは思う。そして、こういう条件の厳しい「小説」を書いて、かつ娯楽として成立させてしまうというのは、探偵小説作家というのはすごい才能だと私は思い、尊敬しています。