猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

隈研吾『自然な建築』岩波新書(isbn:9784004311607)

 しばらく「建築」に興味を失っていた私がこの本を手にとって衝動買いしてしまったのは、まったくもって犀川助教授と森博嗣さんのおかげである(で、「まったくもって」は死語だと10年以上前の西之園萌絵は指摘するだろう)。『モリログ・アカデミィ』や犀川&萌絵シリーズでときどき語られる建築の話や建築素材の話を読んで、そういえば建築っておもしろかったんだよな、という思いが湧いてきた。
 かつて藤森照信さんの本を読んで私は建築のおもしろさに気づいた。ところが、ある機会に、その建築物を使う人の利便をまったく顧みず、自分のアイデアとデザインを利用者に優先させる建築家に出会ってしまった。利用者にしてみればいい迷惑だと思う。この一件で、私は建築家に対して「身勝手な人たち」という印象を強く持ってしまった。「建築家というのは、いろいろと考えて、いろんなことをやってみるおもしろい人たちなんだな」という、藤森さんの本を読んだときの印象は遠くかすんでしまった。
 だから、今回、この本も、読み出したときには、正直にいって「うさんくさい」と感じた。「人間にとっての豊かさ」、「建築は社会のOSである」などと、書いている人がわかってるんだかわかってないんだかわからないような表現が次々に出てくる。犀川助教授ぐらいに明晰に考えて明晰に表現ができないのか、と私は苛立った。
 けれども、後半まで読み進めると、この本はおもしろくなってきた。竹とか日干し煉瓦とか和紙とか、具体的な素材の話である。それに沿って、「開き直っては作れるはずのものも作れない」、「自然とは制約のことである」、「純粋さは自然とは反対の概念である」、「したがって「原理主義」の建築では「自然な建築」はできない」という主張が展開される。そのことばだけ投げ出されたら、私はやはり「うさんくさい」という印象を持っただろう。実際の建築作りの過程と合わせて読むので納得できた。後半まで来て、やっと、やっぱり建築というのはおもしろいものだったんだなと感じられた。
 では、著者の主張に共感できるかというと複雑で、共感できるところもあり、共感できないところもある。
 私自身は、木造で、床は畳と板の間で、屋根は瓦葺きの、冷房のない家で育った。だから「自然素材の家」にはなじみがあるし、そういう家に住みたいと思う。鉄筋コンクリートで冷暖房完備の家と、木造で、冷房がなくて、そのかわり夏には風が通り冬には日が射しこむ家と、どっちがいい、と言われたら、私は木造のほうがいいと答える。じゃあ、同じ値段だったとしてどっちを買う、といわれたら、ちょーっと考えるけどね。まあ、そんな機会、現実にはないから、どうでもいいんだけど。
 また、マンションのチラシなどで、「室内大理石の高級仕上げ」とか書いてあると、鉄筋コンクリートや鉄骨造りの家の内装だけに大理石なんか使って、メンテナンスがたいへんでむだなだけじゃないか、と感じてしまう。この著者も、コンクリートの表層だけ飾るような建築が大嫌いということで、そういう面では共感を感じはするのだ。
 けれども、けっきょく「自然」って何、という疑問に、私は返ってしまう。
 現在の都市に住む私たち(私自身は都市に住んでいる)にとって、鉄筋コンクリートの高層建築が林立する風景は、それがもはや「自然」ではないのだろうか? コンクリートの表層にさまざまな素材を貼りつけて表層だけ演出するような建築こそが、私たちにとっての「自然」ではないのか? 「表層だけ飾るのはまちがっている」という感覚こそが、現在にあっては「まちがっている」のではないだろうか? また、モダニズムに至る「西洋」の建築が、私たちの生活を「貧しく」したというけれども、モダニズム建築(ようするに四角くて高層の何の特徴もない機能的なビル群)がなかったとして、いまの社会の「豊かさ」があり得ただろうか?
 現在の建築は「とりあえず図面を引き、とりあえず施工を開始し、とりあえず何が何でも完成日に間に合わせる」のが目的だと著者は批判する。しかし、「とりあえず」の積み重ねこそがその場の「自然」なのではないのか?「自然」とは、よけいなエネルギーをかけないで、最低限のエネルギーで安定している状態のことだと思う。「とりあえず」の積み重ねで、この表層だけ飾ったコンクリートの建築群ができてしまうのだとすれば、それはそれがいちばん「自然」だからではないか?
 著者はCGで立体は再現できないという。でも立体をデジタル化することは可能だ。著者は人間は「現物」に対してでないと反応しないという。けれど、犀川助教授や森博嗣さんが言うように、それはそういうふうに育ってきた人間だから感じる感覚であって、むしろデジタルデータのほうに現実感を感じることだってある。これからはむしろ「デジタルデータこそが現実だ」と感じる機会のほうが増えるのではないか。また、この世界自体が「デジタルデータ」で表現したほうがより「現実」的だということを、たとえば量子力学とかの前世紀の科学の発展は明らかにしてきたのではないか? たとえば、「虚数」などという、五感の感覚では把握し得ないものを使ってこの世のなかを説明したほうがうまく説明できると前世紀以来の科学は明らかにしてきたのではなかったのか?
 そういう「現在の私たちの自然」に対して、著者の主張は私にはどうにも力不足に感じた。「力不足」という表現は失礼だとは思う。でも、「自然」を「エネルギーを最低限しかかけないで安定している状態」と考えたら、いま「自然な建築」を作ろうとすること自体がものすごく不自然である、その不自然をあえてやっている――と考えるのが、私はやっぱり「自然な建築」の正当な位置づけなのだと思う。ではその目指す「自然」って何なのか? それがわからないので、やっぱりこの本を読んで落ち着かない感じと非力な感じが残るのだと思う。
 著者がこの本でとりあげた建築を作ってきた場所はほとんどが「地方」(「大都市以外の地方」)である。その「地方」に、著者のいう「自然」という考えかたを持ちこむことで、何か展望が開けるのか? もし経済的な意味での展望が開けなくてもいいとしたら何のいいことがあるのか? この「自然な建築」の投げかける問題は、たぶんそのことを考える方向へと繋がっていくと思う。それに「人間本来の生活」とか「心の豊かな生活」というわけのわからない概念ではない説明を与えることが、やっぱり必要なんだろうと思うのだけど。
 あれ?! しばらくここでは「です、ます」調を使ってきたのに、今回でいきなり「だ」調に戻ってしまった。ま、いいか……。それがこれを書いたときの「自然」だったのだから。