猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「自然」的な都市に人間はどう向き合うか?

 もう一つの基本線は、それとは対照的に、人間による意図や計算が入りこまなくては都市はできないということです。
 都市が「自然」としての性格を持つと行っても、そこに建築物を造るのはやっぱり人間である。とくに建築物を造る上では建築家の役割が大きい。そこで、建築家は、都市の「自然」としての性格を計算に入れつつ、自分が造る建物をどう造るかということを意識していなければならない。けれども、その意志自体が、また「自然」としての都市のなかに引き戻されていく。建築家が建築物を造るときに意図した意志が生きるばあいもあるし、ぜんぜん生きないばあいもある。違う方向に変わって生きることもある。だから、その「自然」的な都市に、人間は、とくに建築家は、どういう姿勢で向き合うか、という問題がある。そのこともこの座談会を通じて意識されている問題意識だということができます。
 そう捉えると、磯崎さんが出している「切断」の問題、つまり、建築を造るときにいろんな要素を考えるときりがなくなるけれど、あるところで「ここまで考えて建築を造る」と「思い切る」(不正確な要約だけど)ことをめぐる問題とか、宮台さんが繰り返す「ピースミール・ソーシャル・エンジニアリング」(細かい手直しを繰り返していくという社会変革。私は「一点一滴の改良」という表現のほうが好きだけど)の問題などがうまくつながるように思います。
 このような問題に加えて、浅田さんが「ここで問題にされていることは1970年代ごろから変わっていない」と発言し、東さんがそれに反論するとか、「アーキテクチャ」ということばに込められた歴史性を十分に意識してほしいという、建築の現場にいちばん近い立場の磯崎さんの要請がけっきょくあいまいになってしまうとか、宇野さんが「批評がアーキテクチャを問題にするということ自体を問題にすべきだ」と繰り返し主張しているのに、そのたびに一瞬だけその問題に立ち返りながら結局は無視されてしまうとか、いろいろな論点が飛び交い、まさに「自然」的に座談会が進んで行きます。議論自体も、「ツリー」型に、つまり「この論点の次はこの論点」というように整然と進んで行くのではなく、「セミラティス」(なんですか、それ? 私ははじめて聞きましたよ)型に、つまり、きまぐれにウェブページ上のリンクをクリックして別のページへと流れていくように進んで行く。大きな話題が出てきたと思ったらそのまま展開せずに終わったり、ぜんぜん違う話が始まったかと思うと前に出てきた話題にふいにつながったりする。そういう点では、非常に「自己言及」的な座談会だったとも言えるわけですが……わかりにくいのは確かですね。ま、「自然」とはそういうものです。