猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

宇野常寛さんの問題意識について

 とくに、この座談会で宇野さんの提起している問題は私は重要な問題だと思うんですけど。
 宇野さんの『ゼロ年代の想像力』は、全体としては私にはよくわからない本だったので、私には宇野さんの問題意識はよくわからないし、正直に言えばあまり関心もない。ただ、この本で印象に残ったのは、「大きな物語」が崩壊したからといって、「物語」そのものを相手にすることを放棄してしまっていいのか、という宇野さんの苛立ちでした。宇野さんの仮想論敵である(敵にしてはなんか仲がいいみたいだけど)東浩紀さんも、「大きな物語」が崩壊すると「小さな物語」があまりに容易にたくさん生まれてきてしまうことは認めている(これは『ゲーム的リアリズムの誕生』に出てきます)。だったら、その「小さな物語」こそを問題にするのが批評の役割ではないのか、というのが宇野さんの基本的な問題意識だろうと思います。
 この座談会での宇野さんの問題意識はそれと通じているように思います。社会が「アーキテクチャ」の層と「コミュニティ」の層に分かれてしまっている。つまり、社会を支える技術体系の層と、その上で人間が何をするかの層が分かれている。「社会を支える技術体系」というのは、具体的には何かの建物でもいいし、一つの都市でもいいし、SNSとかのネットワークのサービスのシステムでもいい。そういうものの上で人間がいろんなことをやっている。しかし、その人間が具体的にやっていることを「人間はいろんなことをやっていますね」で終わりにして、関心を「技術体系」(アーキテクチャ)のほうに集中する。批評がそんな態度でいいのか、やっぱり批評というのは人間が具体的に何をやっているかということをきちんと相手にするものなのではないかというのが宇野さんの主張だと私は思います。都市にしてもネットワークにしても、「自然」的に成長するということだけ強調されて、そこには人間の意図・意志が反映されていることが問題にされない。そこを問題にしなければいけないはずなのに、というのが宇野さんの主張だと思う(これも不正確な要約だけど、ここではこういう要約にしておきます)。この論点についてはこの座談会では十分に語られていないように私は思います。
 ただ、この議論の流れを読んでいると、そういうことの「語りにくさ」も同時にわかるように思います。つまり、ある建物が、または、ネットワーク上のあるサービスが、こういう人のこういう意図で造られたとする。でも、それが、「自然」的に成長する都市社会やネットワーク社会の上でどういう意味を持つかがあまりに漠然としている。あまりに「確定」しなさすぎる。もうちょっと具体的にいうと、その意図や意志は、別の意図や意志とぶつかり合うことで、その役割とか成長の可能性とかをどんどん変えて行くわけですが、どういう意図や意志とぶつかるかわからないから、その評価のしようがない。少なくとも評価のしかたを私たちは確立していない。そういう「不確定さ」から来る「コミュニティ」レベル(人間が具体的にどう動くかというレベル)の「語りにくさ(批評しにくさ)」について、宇野さんは無自覚で、だから苛立っているのか、それともそれを自覚しているからこそ苛立っているのかは、よくわかりませんでした。