猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

宇野常寛さんの東浩紀さんへの批判をめぐって

 また、宇野常寛さんの東浩紀さんへの批判や、それと関係して宇野常寛さんが「決断主義」を支持しているように読まれることについても、「セカイ系を支持しているわけではない東浩紀と、決断主義を支持しているわけではない宇野常寛が対立する必要があるのか?」と書いていて、「いや、なんかそのとおりだな」と思いました。だいたい東さんと宇野さん、コミケでは隣どうしの(合体)ブースで本売っていらっしゃいましたし。私が買いに行ったときには、東さんが来客と延々と何か話しておられる横で、宇野さんは熱心に呼び込みをなさっていて、「宇野さんってなんて好青年なんだ!」と思ってしまいましたよ。本買っちゃいました(最初から買うつもりだったんだけど)。
 ともかく、『ゼロ年代の想像力』で宇野常寛さんは「セカイ系」的想像力を「1990年代的引きこもり肯定の想像力」とし、「古い想像力」と批判した。しかし、この本の著者の前島さんによると、2005年ごろには「セカイ系」はもう終わりを迎えつつあった。ところが、宇野さんが「古い想像力」として批判したことで、「セカイ系」という概念が復活してしまった。つまり、ほうっておけば消えて行きそうだった概念をわざわざ引っぱり出したことで、宇野さんは「セカイ系」を復活させてしまったということです。
 この『セカイ系とは何か』によると、「セカイ系」作品が注目されていたピークは2003年前半だということです。また、代表的な「セカイ系」作品とされる『ほしのこえ』・『最終兵器彼女』・『イリヤの空、UFOの夏』はどれも2000年代の作品です。だとすると、「セカイ系の想像力」も「決断主義の想像力」も「2000年代の想像力」ということになり、必ずしも「古い想像力」と「新しい想像力」と言ってしまうことはできなくなります。もっとも、宇野さんの図式では、『エヴァンゲリオン』旧劇場版ですでに放棄されていた「引きこもり的」想像力をその後続者たちが引きずり続けた結果として生まれ、評価されたのが「セカイ系」という現象だということですから、宇野さんによれば、「セカイ系は2000年代の現象だけれど、その想像力はどうしようもなく古い」ということになるのでしょうけど。
 ……どうかな? 前島さんの本は「決断主義」に対するまとまった評価は書いていないけれど、「セカイ系」も「決断主義」もまずは2000年代の現象として評価したほうが正当に作品を評価できるんじゃないだろうか? たとえば、『ほしのこえ』重要な役割を果たしている「携帯メールによる通信」は、1990年代にはあまり「想像」されるものではなかったのではないかと思うのですけれど。