猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

『エヴァ』について少しだけ(長いけど)

 この本では、『新世紀エヴァンゲリオン』を「前半」と「後半」に分けて説明しています。「前半」は、密度の高い作画とカット割り、濃密な世界設定、その世界設定を表に出さず、その存在を示唆する「謎」をちりばめて見せる見せかたなど、当時20歳代に達していた世代までのオタク(「第一、第二世代オタク」ということになるのでしょう)をターゲットにした、よく作り込まれた作品、「後半」(と言っても20話ぐらい以後)は、そうした映像の質の充実を放棄し(スケジュールが破綻してできなくなった?)、ちりばめられていた「謎」の「種明かし」も何もなされないまま、主人公碇シンジの「自分語り」、「一人語り」になってしまった作品という分けかたです。
 私もリアルタイムで観ていたから(ほんとうに午後6時30分のリアルタイムで観ていたので、テレビ東京ではその前が『愛天使伝説ウェディングピーチ』だったこともよ〜く覚えている。日によっては宮村優子の声が一時間連続で聴けた。も〜ミルクで乾杯ですよ。一時間続けて「おめでとう」作品だったんだな、つまり)、「前半」と「後半」の違いはもちろん知っていた。でも、私は「後半」のような「一人語り」の作風にそんなに抵抗はなかったし、当時のアニメではときどき「再編集話」を挟むことでスケジュールの余裕を作ることも行われていたので、「あー、この作品もそういうふうになったんだな」と思った程度でした。後に劇場版を観たこともあり、「後半」は劇場版までの「つなぎ」で、『ふしぎの海のナディア』の「島編」みたいなものなのだろうな、と私は位置づけていました。
 『エヴァ』の成功後、ガイナックス作品というと『王立宇宙軍オネアミスの翼)』→『トップをねらえ!』→『エヴァ』という発展順序で語られることが多くなり、『ナディア』は忘れられているっぽいですが、『エヴァ』放映のときにはやっぱり「前のガイナックス作品・庵野秀明監督作品」としては『ナディア』が意識されたのです。で、「島編」というのは、『ナディア』の後半、主人公たちがふしぎな(というより怪しい)島に流れ着いてから、ナディアが自分の出生について知るまでの、どちらかというと作画も物語作りも雑な時期のエピソードのことです。「島編」の監督は当時はまだ無名だった樋口真嗣でした(庵野秀明だって『ナディア』のころはアニメファン以外にはほとんど無名でしたが)。
 そんなふうに思っていたので、この本で、当時10歳代だった(「第三世代」の)オタクを「真にとらえていた」のが「後半のエヴァ」だという一節を読んで、私は軽く(しゃっくりが止まる程度に)びっくりするとともに、「ああ、そうだったのか」と納得しました。
 『エヴァンゲリオン』については、私は当時からいろいろとわからないことだらけで。
 私の周囲で、それまでアニメになどまず関心のなかったような人たちが『エヴァンゲリオン』に興味を示し始めたのは1996年、最初の劇場版が公開される少し前からです。私は観なかったけれど、このころに再放送があったらしく、それを観たというひとが多かったように覚えています。
 1995年は、1月に阪神淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件があり、また「戦後50年」だったこともあって、「古い時代の終わり、新しい時代の始まり」の画期と位置づけられやすい年です。それで、「1995年に『エヴァ』のブームがあって」という言いかたがときどきされる。また、ガイナックスファンや、もう少し広くアニメファンから、『エヴァンゲリオン』が、1995年のうちから(放映前から)非常な注目を集めていたのも確かです。この時期には死海文書関係の宗教史の本が書店で平積みになったこともあったし(私も買った)、なぜこの時期に死海文書とか福音書エヴァンゲリオン)とかに本が平積みになるほど関心が集まるかというと『エヴァ』以外にきっかけは考えられないので、『エヴァ』への関心は「世間一般」にもある程度は浸透していたのでしょう。でも、従来のアニメファン以外の人にまでブームが広がったのは最初の劇場版のちょっと前からだったと思います。だいたい「後半のエヴァ」が放映されたのも1996年に入ってからのことだし。
 で、その人たちに接して、とてもふしぎだったのは、だいたいみんな『エヴァ』の悪口を言うのに、私に「観てどう思った?」と繰り返し聞いてきたり、劇場版を見に行ったりするということです。で、そのうちの一人が劇場版を観に行って、「許せない」、「怒った」というので、「だったら最初から観なけりゃいいじゃない?」と言ったら、こんどは「何を観るのも自由でしょ!」と私が怒られたりして。それも本気で怒られたんですよね。「シンジくんがどうなるかが気になったから見に行った、だから見に行くのは当然だ。しかし自分の求めていたような終わりかたではなかった、だから怒るのも当然だ」というのがそのひとの理屈でした(ちなみにこのひとは現在では初音ミクの熱烈なファンなのだそうです)。ともかく「自分の考えていたのと違う」、「自分の期待していたのと違う」という避難が私の周囲ではとても多かった。私はというと、それに対して「ふだんアニメを見ないひとがいきなり『エヴァンゲリオン』のような「アニメを見ることのくろうと」向けの作品を見るからだ」と思っていました。
 その後、東浩紀さんが『エヴァンゲリオン』を、「フェイク(にせもの)としての「大きな物語」がまだ残っていた時代」と「「大きな物語」が完全消滅した動物化の時代」を分ける画期的な作品だと評しているのを見て、「そこまですごい作品か?」と思いました。「東さんは『エヴァ』を「誤読」し、その「誤読」に基づいて評価しているのではないか?」とさえ思っていた時期もありました。ともかく、私は、そのまま、新劇場版『ヱヴァンゲリヲン』が登場するまで『エヴァ』のことはあまりまとまって考えることがなかった。私にとっては、『エヴァ』は印象に残る作品だったけれど、前には『美少女戦士セーラームーン』や『無責任艦長タイラー』や『赤ずきんチャチャ』があり、同時期に『スレイヤーズ!』があり、後に『魔法使いTai!』があり『勇者王ガオガイガー』があり……という一連の作品のなかの一つに過ぎないものでもあったのです。
 でも、東さんが書いた他の文章を読んだり、今回の前島さんの本を読んだりしてみると、『エヴァ』にはやっぱり特権的な扱いをされるだけの要素はあったのだろうと思います。たとえば、東さんが『エヴァ』の画期性を評価している点の一つが、キャラクターが物語と切り離して「消費」されたという点です。それだけの力が『エヴァ』のキャラクターにはあったということは認めないといけないのでしょう。私にはよくわからないのだけど。ええ、たしかにアスカは好きでしたよ。ヒカリも、マヤも。
 また、『エヴァンゲリオン』は、ネットで、「評論家」などの専門の文章書きではない多くの一般視聴者が大量の文章を用いて語ったという点でも、やはり画期的だったと思います。その前からアニメ作品がネット(まだ「パソコン通信」でしたが)で語られることは普通だったけれど、書かれたテキストの量は『エヴァンゲリオン』についてのものが圧倒的に多かったように思います。
 でも、私が「島編」的なもの(次に力を入れている作品ができるまでの「つなぎ」)としてしか見ていなかった「後半」が、「第三世代オタク」にそれほどのインパクトを持っていたとは、この本を読むまで、私には想像外だったのです。