猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「「セカイ系」論」論

 今回の新刊は、前の日記で書き始めた「セカイ系」についての評論を倉卒の間にまとめたものです。いちおう「「セカイ系」論」論ですが、「セカイ系」作品はほとんど読んだことも観たこともない状態で書いているし、「セカイ系」論についての知識も前島賢さんの『セカイ系とは何か』に頼り切っている状態でした。中間報告と言うより「着手報告」ぐらいのものでしたが、『「セカイ系」を遠く離れて』という東浩紀さんっぽいタイトル(いいのか?)で関心を引いたのか、『エヴァ』風の極太明朝の表紙が目立ったからか、10部完売してしまいました。
 この極太明朝の表紙はプリンタで印刷していると心なしか黒インクの減りが早く。しかも、「劣化コピー」感を出そうと画像処理でいろいろといじくったら……なんかたんに「これ、コピー機の調子悪かったの?」というような効果になってしまいました。裏表紙も自分が撮ったなかから「新海誠さんっぽい」写真を探したのですが、なんかぜんぜん違うし。「新海さん」な風景というのは、郊外に出ればどこにでもありそうで、じつはなかなかないものだということがよくわかりました。
 典型的な「新海誠」的風景というのは、たぶん、やっぱり「中間」がないんですね。遠くまで空が広がっているわけですが、その空の下の「生活空間」がない。でも看板とか電線とかはあるわけで、「手つかずの自然」でもない。だから「セカイ系」世界って、たんに「中間の存在がない」、「生活空間がない」、「共同体がない」……とは違うんですよね。人はいる。それが前提なんだけど、それが「自分たち」にも「世界」にも関わってこない。奇妙な疎外感があるんじゃないか。……あ、いや、こういうのはまたちゃんと見て書かないといけないですね。
 自分の多少はわかっている分野の話にすると、押井守作品では『スカイ・クロラ』の情景がやっぱり「セカイ系」的なのかなと思います。物語も、「セカイ系」と違うところはあると思うけれど、「彼と彼女(優一と草薙)」と世界の構造が直結しているというところもあり、その作品構造が荒野のなかに軍の施設や食堂が点在している情景と結びついているのかな、と。だとしたら、ずっと押井作品批判に回っていた東浩紀さんが『スカイ・クロラ』は「絶賛」に近い評価をしていたことも理解できる……と思う。
 「セカイ系」論を十分に展開する余裕はないけれど、次にはもう少しヴァージョンアップしたものを持っていきたいと思います。よろしくお願いします。
 今回の思いつきは:
 1. 「セカイ系」作品の世界では、「彼と彼女」の個人的な恋愛関係と「世界の危機」のような大きなできごとが、「中間」を飛ばして直結していて、それが特殊だといわれるけれども、私たちの生活でそういう感覚がそんなに特殊か、ということ;
 2. 同じように、「戦争が起こっているのに、日常生活も何も変わることなく続いている」という事態が「セカイ系」作品世界の特殊性と言われるけれど、それはそんなに特別なことだろうか、ということ
です。つまり「セカイ系」の世界は私たちの生きている世界とそんなに違わないんじゃないか、ということですね。これは、前島さんが意識して避けていた話題ではないかと思うのですが。
 あとは:
 3. 宮崎駿監督の『天空の城ラピュタ』でドーラとタイガーモス号集団の存在を消すと『ラピュタ』はセカイ系になる?
 4. 細田守監督『時をかける少女』は(「セカイ系」と近い?)「ゲーム的リアリズム」の作品と評されたのに対して、その次の『サマーウォーズ』は「セカイ系」では排除されているとされる「中間項」の家族が描かれている。では『サマーウォーズ』は反「セカイ系」的か――というと、じつはそうでもないのでは?
という思いつきですね。このあたりは、この日記でも徐々に書いていければと思います。