猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「段階論」という発想

 そこで、科学者であり、マルクス主義者でもあった武谷三男というひとが「三段階論」というのを唱えた。自然認識は「現象論→実体論→本質論」と段階を追って進む。段階を飛ばしたら失敗するという考えかたです。
 これは、当時のマルクス主義の革命理論と同じ性格を持っています。資本主義以前の段階の社会(封建社会)、または、封建社会の特徴がまだ強く残っている未熟な資本主義社会では、革命は「資本主義革命(=市民革命)→社会主義革命」の順に段階を追わなければ成功しない。そういう議論があった。とくに日本では第二次大戦前の「講座派‐労農派」論争というのがあって、そこでの「講座派」の主張が二段階革命だったということも影響している……のかな?
 マルクス主義にこの「現象論→実体論→本質論」という「三段階論」があったかどうかは知りませんが、とりあえずこの「三段階論」を当てはめてみると、ここの社会は資本主義もぼちぼち発達してきているけれど、農村社会では地主とかの支配階級が経済的な利害以外でも人びとの生活を束縛しているという封建的な側面もあるなぁ、というのが「現象論」で、「この社会では、労働者階級は、資本家階級の中でもあんまり豊かでない人たちと同盟して、市民革命をまず起こすべきだ」というのが「実体論」、で、「封建社会から資本主義社会への過渡期にある社会ではまず市民革命が必要だ」というのが「本質論」ということになるのでしょう。
 ところでいまいきなり「農村社会では」と書きましたが、都市以外の社会には山村も漁村もあるわけで、やっぱりマルクス主義の理論では「山村」・「漁村」についての考察は弱い気がします。
 それが素粒子物理学に来るとどうなるかというと、「原子核はプラスの電気を持った陽子と電気的にはプラスでもマイナスでもない中性子でできている。プラスの電気どうしは強く反発するはずなのに、原子核は壊れない」とか「原子核ベータ崩壊して原子核の種類が変わる」とかいう現象があり、そこで「中間子というものがあって、原子核を一つにまとめているのではないか」という「実体論」に進む。そして、その中間子がどのようにして原子核を一つにまとめているかという抽象的な理論=本質論へと進む。そういう段階を経てこそ素粒子物理学の理論というのは成功するのだという議論でしょう。
 この方法で湯川秀樹の中間子論は成功し、坂田昌一も、1937年に(大気中の)宇宙線から発見された正体不明の粒子を「ミュー中間子」という「実体」を想定することで解決して、また成功したわけです。ミュー粒子は現在では電子と同じ「レプトン」の仲間に分類されていますが、当時は、電子と陽子・中性子などとの中間の質量を持つこともあって、「中間子」の仲間と考えられていたらしい。
 この「段階論」自体は、その発想のマルクス主義的背景を抜きにしても十分に理解できる発想です。文章を書いて、ちゃんと版下を作って(いまだに反射原稿入稿なんです)、印刷所に持って行って、送ってもらうという「段階論」があって始めてオフセットの本ができる。その「段階論」をちゃんとしておかないとオフセット本が二回連続して落ちたりするわけです。私みたいに。ほんとにもー。前日に書いて、ほとんど寝ないで印刷して折って、ときにはホッチキス留めして持って行く――というのを繰り返しているとこの「段階論」の発想がどうしても弱くなってしまうんですね。
 科学とは関係ないけど。