猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「段階論」以外の考えかた

 しかし、佐藤さんによると、素粒子物理学でも「段階論」以外の考えかたもある。その一つは、起こってしまった現象から何が起こったかを考える観想的な立場で、量子力学の基本を作ったうちの一人、ニールス・ボーアの立場がそれにあたるということですが……このへんはよくわからない。ともかく、この本によると、ボーアは、現在の理論では説明できない現象に対して、新しい種類の粒子を導入して説明しようと試みるような立場が嫌いだったということです。そういう「保守的」な立場に対して、「新しい粒子を導入して説明がつくかどうか試してみる」という「実践性」が、湯川秀樹の方法論にもあるし、武谷‐坂田の方法論にもある。そこが違うんだということのようです。
 このころ、社会主義は社会変革の実践の思想だと思われていた。そのことが、カントのような「観念論」よりも社会主義が「進んでいる」ところだと思われていた。その「誇り」感がこういう認識に出ているのですね。
 それとは別の対立もある。
 カリフォルニア大学バークレー校のジェフェリー・チュウー(Geoffrey F. Chew.わざわざ「チュウー」と書かなくても「チュー」か「チュウ」でいいじゃない? また、佐藤さんは「ブーツストラップ理論」と書いているけれど bootstrap principle で「ブートストラップ」のほうが近いと思う)は、「粒子はすべて平等である」という考えかたを持ちこんだ。つまり、「光子が電子から出て別の電子に吸収され、電気力・磁力を伝える」といえば、電子が主役で、光子がその電子の間を走り回る脇役のように表現される。しかし、「光子が電子に吸収され、しばらくしてまたその電子から光子が出る」とすれば、電子が最初の光子と次の光子をつなぐ媒介役ということになり、光子のほうが主役になる。つまり、どれかの粒子が「主役」に見えたり「脇役」に見えたりするのは、ただそう見えるだけのことで、じつはどの粒子も平等なのだということです。
 チュー http://en.wikipedia.org/wiki/Geoffrey_Chew
 ブートストラップ理論 http://en.wikipedia.org/wiki/Bootstrap_model
 これに対して、「段階論」の発想を基礎にする坂田グループは、自然の把握についても「階層論」の立場を採る。たとえば、陽子とか中性子とか中間子とかはクォークで構成される以上、陽子・中性子・中間子などとクォークとは別の「階層」に属する。素粒子物理学の理解にはこの「階層」の把握が必要だというわけです。もっとも、1960年代当時にはクォークの存在はまだ発見されていませんでしたが。
 これは、「革命を成功させるためにはきっちりした指導部が必要で、労働者大衆はこの指導部に従わなければならない」という、労働者階級の中にも「指導部‐大衆」という階層関係を想定するいわゆるマルクス主義の方法と、「すべての労働者には固定した指導する‐指導されるという関係はない。みんな平等だ。だからみんなで連帯して革命を成功させればよいのだ」というアナーキズムの方法との対立を思わせる対立です。それは、ソ連・中国という(当時)現存の社会主義大国に未来を見出そうとした坂田と、資本主義大国アメリカの中で民主的な学風を維持し、ベトナム反戦運動などにも関わっていったチュウーとの対比にも現れているのかも知れません。
 で、けっきょく、クォーク論の完成とともに、チュウーの議論は影が薄くなっていったけれど、その「すべての粒子は平等だ」発想は、南部陽一郎さんの「超ひも(超弦)理論」へとつながっているということです。
 つまり、現象には「すべて平等だ」と見たほうが問題を解決しやすい局面と、「階層関係がある」と見たほうが問題を解決しやすい場面の両方がある。「超ひも理論」のような「時間、空間、重力、クォークレプトン……」の全部の起源を探ろうとするときには「すべて平等」の見かたが、「クォークから陽子や中性子や中間子が構成される。クォークにはいくつの種類があるんだろう?」という問題を解くときには「階層」の見かたが有効だ。そういうことになるんじゃないかと思います。
 これは、社会で「平等」というのを考えるときにもたいせつな視点ではないのかな、と思います。