猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「都市」の「自然」的性格

 その「流れ」の基本の一つは、「都市」という場が一種の「自然」であるということです。
 「自然」というのは、森があって、川が流れていて、空気がきれいで……とかいうことではなく、「自分で勝手に成長し変化する」という意味です。もちろん人間がいて、人間の意志で都市は変化して行くわけで、その意味ではもちろん都市は「人工」のものです。けれども、都市に家とかビルとかいろんなものを造っていく人間たちのあいだで、その都市をどう成長させようという合意があるわけではない。いろんな人間たちの思いがぶつかり合って、だれも意図しなかったものができてしまうことがある。また、建築物というのは造った人の意図どおりに完成するわけではない。造ってみると意図したのとはぜんぜん違うしろものができることだってあります。しかも、建築物はいちど造ってしまうとなかなか取り壊せない。だから、それが意図したのとはぜんぜん違う建築物になったとしても、その建築物はそのまま十何年か何十年かは存在し続けることになります。さらに、建築した人の意図と、それを使う人の意図がぜんぜん一致しないこともあるし、「建築した人」といっても、発注した人と設計した人と実際に施工した人とでまた考えが違ったりする。
 そういう点で、建築物はだれかが一つの意志でコントロールして造るものではなく、だれの意志からも離れて「自分で勝手に」できてしまうという性格がある。そして、その「建築物」の集合体である都市も、「自分で勝手に」成長するという性格がある。そういう面から、建築と都市を捉えてみようというのが、このシンポジウムの一つの方向性だと思います。
 都市については、そういう「人びとの意志のぶつかり合い」から「自然」的に成長することを嫌い、そういう「意図せざるもの」をできるだけ排除して、一つの意志によって組み上げられた都市を理想とする立場もあります。都市計画の立場を極端まで推し進めるとそうなりますし、最初からすべてを計画して造る「計画都市」もあります。でも、この座談会ではそういうものにはあまり関心が払われていません。たぶん、このような「計画」的な立場はすでに過去のものになったという理由ででしょう。
 で、そういう都市の「自然」としての性格は、デジタルネットワークについても言える。ネットワークのサービスは、作った人の意図どおりに使われるとは限らないし、サービスが始まったときの意図を超えて大きな社会的・「公共」的機能を担うこともある。画期的なサービスだと自負して登場したシステムがあまり利用されず、一部のひとが遊びのつもりで作ったシステムが多くの人たちにとってすごく重要な役割を担うことになるかも知れない。そういう点では、デジタルネットワークの世界も都市と同じ関心で捉えることができる。
 まあ、こういう基本線で話が展開しているとみていいと思います。