猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「自然とは何か」について少しだけ

 前回、隈研吾『自然な建築』(岩波新書)について書いたときに、自然というのは「いちばんエネルギーが低くて安定している状態である」という前提で議論しました(あ、「だ」調が「です、ます」調に戻ってしまった)。
 私は「理系」ではないので詳しいことはわかりません。でも、現在の科学で「自然」というときには、たぶんそう考えているのではないかと思います。自然な状態では水面は平らである。かき混ぜるから水面が波立つ。自然な状態では電子は原子核のまわりで原子核になるたけ近いところを回っている。電磁波とかでエネルギーを与えるから原子核から遠いところまで電子が飛び出してしまう(「励起」される)。水面が平坦である状態とか、原子核にできるだけ近いところを電子が回っている状態とかがいちばん「自然」な状態なので、波立った水面や外側の軌道まで飛び出した電子は、ほうっておけば、平坦な水面や原子核に近い軌道まで戻ろうとする。科学で言う「自然」ってそういうものかな、と思うわけです。
 もっとも、実際の「自然」はいろいろなところで複雑に関係し合っているので、一つの要素だけならば「自然」ではなさそうな状態がじつは「自然」だったりする。たとえば、地球は回らず、空気も動かなかったとしたら、海の水は波立ちもせず流れもしないのが「自然」なのでしょう。それが海の水のエネルギーがいちばん低い状態のはずです。けれども、地球が自転しているので、波立ちもせず流れもしない状態よりは、海流を作って流れている状態のほうが、「海の水+地球」全体のエネルギーはたぶん低くなる。実際には、それに、大気の流れとか月による潮の満ち引き作用とかが加わるし、太陽エネルギーの受け取りの不均等からくるエネルギーの再配分の必要も海水や大気を動かす。つまり、熱いところと冷たいところがあったばあい、熱い空気や熱い水と冷たい空気や冷たい水が混ざらないまま安定しているより、「対流」を起こして熱を運んで全体に熱が均一になるようにしたほうがより安定する。で、「エネルギーがいちばん低いまま安定する状態」を求めてすべてのものが動き、動いているうちにまたエネルギーの不均衡が生じてきて、またそこから「エネルギーがいちばん低いまま安定する状態」への動きが始まるので、実際には「自然」は非常に動きに満ちている。そういうことになるんだと思います。
 だから、地震とか台風とかの「破壊力の大きい自然現象」がときおり起こる。宇宙的規模で見れば、地震や台風よりはるかに「破壊力の大きい自然現象」として超新星爆発が起こったりする。けれども、それも、たぶん、全体としてみれば「エネルギーがいちばん低いまま安定する状態」へ到達しようとする「自然」の動きの一環なのでしょう。
 でも、私たちが「自然」と言われて思い浮かべる「自然」というのは、緑豊かな山里の景色だったり、青く澄んだ空だったり、透明な海だったりする。もうちょっと理屈っぽく言うと「人間の手の加わっていない状態」だったりする。
 人によっては、山里の風景は人の手が加わっているので自然ではないというかも知れない。でも、じゃあ、原生林を思い浮かべればそれは「人の手が加わっていない」ことになるのか? 原生林のイメージを思い浮かべられるというのは、そこに行って原生林を自分で見たか、だれかが撮ってきた写真を見たか(たぶんその例のほうが多いでしょう)ということです。そして、だとすると、そのイメージを取得する段階で人間の手が加わっている。
 つまり、「自然」と言われて思い浮かべる影像と、「人の手が加わっていないのが自然だ」という定義とのあいだにも差があるということになります。
 さらに、英語の nature の系統のことばのもとをたどると、「生まれる」という系統のことばに達するのだそうです。これは、ラテン語を勉強したときに何かの本に書いてあったのだけど、どの本だったかが思い出せない。ともかく、ラテン語の系統では、「自然」には「生まれながらの」という語感がある。だから、人間が生まれたときから持っている要素が「人間の自然」ということになる。人間の集団が生まれたときから持っているものが、人間社会の「自然」である。そういう考えがあるから、「自然法」という概念が出てくる。「自然法」というのは、「人間の手が加わっていない手つかずの自然」の法則というのではなくて、「人間社会が生まれたときから人間社会が持っている人間たちの法」という意味です。
 けっきょく、「自然」というと、1)エネルギーがいちばん低くて安定している状態という意味、2)青空とか原生林とか深海とか、3)人間の手の加わっていないもの、4)生まれつきのもの というような語感とか意味とかがあるわけです。
 だから、「自然」ということばを使うときにはいつもきちんと定義してから使え、などと言うつもりはありません。こういう語義とか語感とかいうのは互いに関連し合っている。「自然」という漢語から言えば、「自分でそうなっているものごと」という意味だから、「人間の手が加わっていない」が近いのでしょう。それが具体的には青空とか原生林である。それは「世界が生まれながらの本来の姿」でもある。そして、それは、科学的には、たぶんむだなエネルギーを使わないで低いエネルギーで安定している状態ということになるのでしょう。
 また、曖昧に使っているからこそ言えるという内容もあるでしょう。
 でも、やっぱり、自分が使っている意味で人も使うだろうという安易な思いこみで「自然」ということばが使われたとき、それは、現実の「自然」から浮き上がったイデオロギーになってしまう。
 イデオロギーのことばにはイデオロギーのことばとしての役割があるだろうと思います。イデオロギーのことばは、ときとして現実を大きく変える力を持つ。民主主義のイデオロギーからアメリカ合衆国は生まれたし、マルクスレーニン主義イデオロギーからソ連は生まれた。ソ連のほうはなくなったけど。
 でも、イデオロギーのことばは、変革力が持続しない。それどころか、ソ連末期を見ればわかるように、放置しておくとかえって官僚主義のように「変化しないで自分の得分を守る」ためのよりどころになってしまう。
 では、「民主主義」は、ときにうさんくさいと思われながらも現実を変える力をいまもいちおう持っているのはなぜかというと、たぶん、「民主主義」というのがあいまいなことばで、そのなかみをいつも入れ替え続けてきたからだと思います。「自由」もそうだと思う。「自由」や「民主主義」をめぐってずっと論争が続いてきたから、そういう概念は、まだいちおう現実を変革する力になり得ている。マルクスレーニン主義の体制はそういう論争を許さなかった。だから現実を変える力を失った。そういう面もあると思います(このあたりのことはまた別に書こうと思う)。
 で、「自然」もあいまいさを持っていることばなので、なかみの入れ替えは可能なのですね。だから、「これが自然だ、あれは自然じゃない、あんたたちはそれもわからないのか」と言ってしまったとたん、「自然」イデオロギーの変革力は失われる。だから、やっぱり、「もしかしてコンクリートに表面だけ別素材の装飾を貼りつけたモダニズムっぽい建築が私たちの自然じゃないか」というところから議論を組んでいかないと、私たちの社会で「自然な建築」とはどういうものかは考えられないんじゃないか、と思ったりもするわけです。