猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「幕藩体制」の綻び

 そして、その流れで考えると、江戸時代の「幕藩体制」も、できてから200年ほど経つといろいろと綻びてくるわけです。
 普通は「ペリー来航」を中心とする「外圧」の影響で説明されるけれど、たぶん、「外圧」がなくても「幕藩体制」は弛んでいたのではないか。各地で産業が発達して、米を含めた商品が日本列島規模で活発に流通し始め、「華美」な都市文化が発達する。一方で、各藩の財政的危機に見られるように、「武士」支配の効率の悪さが表に出てくる。「藩」の規模で収まらない経済的結びつきや人間どうしの結びつきがいろいろとできてきて、それが「幕藩体制」を崩していったのではないかと思います。
 そういう「結びつき」の網が日本列島(まだ本州・四国・九州が中心ですが)全体に広がっていた。その上に「日本」を一つの単位として支配する明治維新体制が成立した。だから徳川体制から明治維新体制への移行はいちおうスムーズに進んだのではないでしょうか。「廃藩置県」のような大きな改革が、明治維新体制を大きく動揺させることなく成功したのも、「藩」を超える「結びつき」の網に支えられていたからではなかったかと思います。
 そして、江戸時代の日本とローマ帝国の類比はともかく、五賢帝時代ごろ以降のローマ帝国で起こっていたことも同じようなことではないかと思う。
 その時代にも、ローマ帝国には「この国はローマである」という意識は受け継がれますが、その理念は「都市ローマ」の伝統からは切り離されてしまいます。カラカラ帝が「帝国」全土の住民に「ローマの市民権」を与えたのは、税金を取り立てるためだと説明されるけれど、でも、それを受け入れる素地は「帝国」全土にできていたのではないかと思います。つまり、「都市」の境界がぼやけて、どこの都市に住んでいても「ローマ市民」と言われてもそれほど気にならない認識が生まれていたのではないか。
 実際、後にコンスタンティヌス大帝がコンスタンティノープルコンスタンティノポリス、現在のイスタンブール)に首都を定めると、コンスタンティノープルの周辺が「ローマ」(「ルーム」とか「ルメリア」とか)と呼ばれるようになります。また、「ローマ皇帝」が帝国の西半分にいる場合でも、首都は必ずしもローマではなくて、ミラノだったりパリだったりします。
 「都市」という支配の単位がぼやけ、「帝国」支配の中で「都市」の意味が低くなっていく。それが、「市民の第一人者」としての皇帝支配、「共和制」の範囲内の制度としての皇帝制を崩していくことになったのではないかと思います。