猫も歩けば...

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突飛な思いつき――ローマ帝国は「幕藩体制」だった

 しかし、「面積が広くなりすぎた」というだけではないのかも知れません。
 支配領域が大きくなったのはローマがまだ「共和制国家」の体裁を保っていた紀元前2世紀ごろからです。でも、「共和制国家」の末期から、その「共和制国家」の枠内で皇帝制度が動き始めた初期のころは、イタリアやギリシアなど、地中海文化を保持していた地域では都市の自治が活きていて、それが「帝国」を下から支えていた。「悪帝」が出て破壊的なことをやってもすぐに「帝国」が修復できたのは、その都市の地力が下支えしていたからだということです(新保良明『ローマ帝国愚帝列伝』講談社選書メチエisbn:4062581817)。「帝国」の都市は、ローマの力に屈服し、ローマの威令に支配されていたけれども、同時に「帝国」はまだ「都市連合」という性格を持っていたのでしょう。
 突飛な連想とはわかっているけれども、あえて言うと、それは「江戸時代の日本」と似ていたのかも知れません。江戸時代の日本は徳川家の威光と武威の下に編成されていて、どこの「藩」も徳川家に反抗することはできなかった。けれども、徳川「幕藩体制」というのは、一面では、戦国時代やそれ以前に起源を持つ大名の「領国」の連合体でもあったわけです。「藩」の「自治」が生き残っていることは、徳川幕府にとってはいろいろと悩みの種でもあったけれども、「藩」の「自治」が徳川幕府体制を支えていたのも確かだと思う。
 その「藩」を「都市」に置き換えれば、「共和制」末期から五賢帝時代ごろまでのローマ帝国のあり方になるというのが私の思いつきです。ローマ帝国と江戸時代の日本では面積はだいぶ違いますけどね。
 あ、そうだ。もしローマの「アウグストゥス」や「カエサル」や「インペラトル」に、中国の絶対神としての支配者を意味する「皇帝」の訳語を当てるのが誤解を招くというのなら、江戸幕府の将軍の通称だった「公方(くぼう)」はどうかな? 「公方アウグストゥス」とかさ。アウグストゥスはもともと「神君アウグストゥス」なんだから家康と同じだし。だからモーツァルトの最後のオペラも「公方ティートの慈愛」だ。それは厭?
 だいたい「インペラトル」は「最高軍事司令官」なんだから「征夷大将軍」なんだしさ。必ずしも「征夷」(「威信に服さない遠方の蛮族を討伐する」)ではないけど「大将軍」には違いない。それに、カエサルオクタウィアヌスも、その前のポンペイウスなども、ローマ以外の土地への「外征」の実績を利用して権力を握ったのだから、やっぱり「インペラトル」は「征夷大将軍」でいいのかも知れない。「インペラトル」を「将軍」として、その称号の「アウグストゥス」(尊厳ある者、幸いなる者)を「公方」と考えると、もしかすると実態に近い? そんなこともないかな?
 ただ、古典時代ギリシアやローマ時代の「都市」というのは、「都市」に政治の中心があり、その「都市」が「周辺」の農山漁村を支配しているというものです。で、江戸時代の「藩」というのも、殿様のいるお城があって、城下町があって、その城下町に住む家臣たちが「周辺」の農山漁村を支配しているというものです。だから、古典時代ギリシアの「都市」と、江戸時代の「藩」はもしかするとわりと似ているのではないかと思ったりもする。
 もちろん違いはありますけれど。たとえば、古典時代ギリシアやローマ時代の地中海の「都市」は「レース・プブリカ」つまり「都市民みんなのもの」だったわけですが、日本の「藩」に「都市民の自治」の伝統はない。でもね、どうなんだろう? たとえば、「百姓一揆」を支えた考えを一種の「レース・プブリカ」意識(藩は「百姓」みんなのもの、ひいては、「天下」は本来は「百姓」のもの、という意識)と考えることとかはできないのだろうか? なんかこれもちょっと違うようには思うけれど。
 でも、「江戸時代の藩」と「古代地中海の都市」には似ているところがあるのではないかというこの思いつきって、いろいろ考えてみるとおもしろそうですよ。