猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

2009-06-13から1日間の記事一覧

結び と 次回予告!

ああ、こんなに長く書いたのに、話がロックまで戻らなかった。どうしよう……。 いや、「どうしよう」って言ったって、まあ、続けるか、中断するかどっちかしかないわけだから……続けます。 次で「キリスト教と政治支配(統治)」という問題を扱ったあと、「ロ…

「幕藩体制」の綻び

そして、その流れで考えると、江戸時代の「幕藩体制」も、できてから200年ほど経つといろいろと綻びてくるわけです。 普通は「ペリー来航」を中心とする「外圧」の影響で説明されるけれど、たぶん、「外圧」がなくても「幕藩体制」は弛んでいたのではないか…

突飛な思いつき――ローマ帝国は「幕藩体制」だった

しかし、「面積が広くなりすぎた」というだけではないのかも知れません。 支配領域が大きくなったのはローマがまだ「共和制国家」の体裁を保っていた紀元前2世紀ごろからです。でも、「共和制国家」の末期から、その「共和制国家」の枠内で皇帝制度が動き始…

帝国が大きくなりすぎたから?

どうしてそうなってしまったのか? 「帝国が大きくなりすぎたから」というのがとりあえずの答えなのでしょう。 五賢帝の3人めにあたるハドリアヌス帝は、その治世のあいだ、帝国内の各地を頻繁にめぐって過ごしました。また、五賢帝の最後のマルクス・アウレ…

「絶対的な神様」の権威が必要な時代へ

さて、そのように、実質はともかく、形式的には「共和制の枠内の称号・役職」として出発したローマの皇帝制も、3〜4世紀のころには「専制」の皇帝制を採用しなければ収まりがつかなくなってしまいます。自分が神様だと言って崇拝を強制した皇帝もいますし、…

「皇帝」は実質「大統領」だった?

さて、前回、ローマ帝国の「皇帝」が、もともと「共和制国家」( res publica )の枠内の称号・役職名として名のられたものだったということを書きました。ローマ帝国に「皇帝」が生まれたことは、「共和制国家」の枠を破る事件ではなかったわけです。 とこ…

ローマ帝国の「皇帝」をめぐって

あいかわらず「承前」で話が続きます。 ジョン・ロック/加藤節(訳)『統治二論』の後編(第二論、通称「市民政府論」)の話――だったはずなんですが、前回、「統治」体制をギリシア都市世界の「自由」と東方巨大王国の「専制」に分ける発想がどこで生まれたか…