猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

なぜ「神様の権威」が必要なのか?

 ところで、都市的な人間関係が崩れ、都市の枠を超えた人間や物のつながりがたくさんできてくると、どうして「神様の権威を頼りにした絶対的支配」が必要になるのでしょうか。
 考えられる答えの一つは「共同意識」や信頼感の有無だと思います。
 一つの都市の人たちは、同じ場所に住んでいるのだから、何か困ったことがあったときには同じような問題意識を抱えるだろうし、その日の天気のことから近くの都市との関係まで、同じようなことを感じ、考えて生きている。だから、その都市の運営を「みんなにとって共通のものごと」(=レース・プブリカ res publica、コモンウェルス commonwealth)として考えて話し合い、その話し合いの結果に基づいて行動することができる。その都市のなかに仲の悪い相手がいても、ともかく「そんな人とでも、いちおう問題を解決するための話し合いはしなければいけないんだ」、「そんな人といっしょに決めたことでも自分も実行しなければいけないんだ」という意識ができる。だから、「みんなが平等な立場で参加することで成り立つ国家」(=レース・プブリカ=コモンウェルス)が成り立つわけです。
 しかし、国の領域が広くて、人びとが住んでいる環境もばらばらだし、ものの考えかたもまちまちというのでは、そういう「共同意識」も信頼感もない。そういうところでは、みんなで集まって問題解決のために話し合うということもなかなか容易でない。「みんなで集まって問題解決ができない」ということは、たとえば車は道のどっち側を通ればいいかも決められないということで、問題解決ができないことの不便さは生活の隅々にまでかかわってきます。そこで、そういう場合には、「上」から「こういうときにはこうしなさい」と決めてもらうのがいちばん楽ということになります。だから、広い領域に人びとがたくさん住んでいる国家は「上」の絶対的権威によって統治される国家になる。
 ――というのがいちおうの説明です。
 たとえて言えば、10部屋しかないアパートだったらゴミの問題とか深夜の騒音とかみんなで話し合って解決できるけど、500世帯が住むマンションだと管理会社が登場しないと解決できない、という考えかたなのだと思う。