猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「家の財産」としての王位・諸侯の位・領地

 こういう状況を理解するためには、二つのことをわかっておく必要があるでしょう。
 まず、フランスの「〜〜公」とか「〜〜伯」とかいう諸侯は、形式としてはフランス王の臣下なのだけれど、だからといってフランス王の言うとおりに動くとは限らない存在だったということです。フランス王の言うことが自分に有利ならば従う。自分に不利ならば、いろいろと理由をつけて従わない。ばあいによっては反抗する。しかも、イギリス王家になったときのアンジュー伯家など、フランス王よりも実質的に支配している領地は広い。フランス王の実質的な支配範囲は現在のパリ周辺だけで、「王」という格はともかく、領主としてみたばあい、そんなに有力だったわけではない。
 これに対して、イギリス(イングランド)王のほうは多少有利で、そういううるさい「諸侯」がいない。「ノルマンの征服」のときに王に政治権力が集中する制度を作り、貴族にももともとノルマンディー公の臣下だった家系(フランスから来た)が多いからです。そのかわり当時のイギリスはヨーロッパではまだ海峡の向こうの辺境国と見られていた。イギリス王とフランス王は、同じ「王」だけど、いちおう(カール大帝シャルルマーニュの)「ローマ帝国」を受け継ぐ王国の一つであるフランスの王と辺境国家イギリスの王ではかなり格が違うと、少なくともこの時代のフランスの王・諸侯の社会では思われていた。
 そして、もう一つ、この当時、王位とか諸侯の位とかその領地とかは「家の財産」扱いされていたことです。だから、相続のときに、親の持っていた王位や諸侯の位や領地が兄弟で(ときには姉妹にも)分割相続される。諸侯が女性ならば、その嫁入りによって諸侯の地位や領地が「持参金」として夫の家に持って行かれる。
 だから、支配者は、そういう「財産」をたくさん持っていたほうが相続のときに有利です。子どもたちに領地や王位・諸侯の位をいっぱい分けてやることができるから。
 逆に言うと、子どもがたくさんいると、「財産」は分散してだんだんとやせ細っていきます。相続をめぐる争いだって起こる。
 たとえば、いまのフランスやドイツが別の国になる前、「フランク王国」として一つだったときのカール大帝の領土は、その子孫が二度にわたって分割しました。その結果としていまのフランスとドイツが分かれた。また、カール大帝時代よりも前、フランク王国は、一度は強い王国になったのに、分裂していったん勢いが低迷します。それも兄弟で領地を分割したりしたからです。「長子単独相続」という制度がまだなかったので、だれか強い王や領主が出て強国ができても、それはすぐに分裂・分散して弱い勢力になってしまう。でも別にそれでよかった。国を長続きさせることよりも、相続を平穏にすませることのほうが、この時代には重要だったわけです。
 しかも、家の財産の継承であり、分割であり、お嫁入りの「持参金」扱いですから、そこに住んでいる領民たちの都合にはお構いなしです。
 では、一般民衆は、王とか諸侯とかの「財産」扱いされて、政治にも口出しできず、すごく悲惨な生活を送っていたかというと、そうでもない。たとえば、一つの領地を領主家の兄と弟が継承したとして、弟が悪い政治を行って領民をいじめたとすると、弟領の領民は兄のところに「あなたの弟がとんでもないんで、兄さんがかわりに領主になってくれませんか?」という話を持ちこむ。それは兄にとって領地拡大の大きなチャンスです。または、形式としてはフランス王の臣下である○○公の領民は、○○公の支配に不満があれば、王のところに「○○公の支配がろくでもなくて私たちは苦しんでいます」と苦情を持ちこむ。勢力拡大を願っている王は、それを利用して○○公を取りつぶしてしまう。それでまた王が悪政を行ったりしたら、今度は隠居している○○公の子孫のところに行って、お家再興を訴える。支配者のほうが支配される人びとを「財産」扱いする一方で、一般民衆も「よりよい支配者」を選ぶことができる。それが百年戦争の始まった時代の西ヨーロッパでは普通だったのです。百年戦争のばあいも、フランドル(現在のベルギーやオランダのあたり)の都市民衆がフランス王よりイギリス王を支持したことが一つのきっかけになっています。