猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

天動説の話いちおう終わり

 前回に書きかけた話のつづきである。
 天動説がひっくり返って地動説が正しいとわかった時期の人類にとって、ではこの「コペルニクス的転回」がどれぐらい意味があったんだろう? じつはけっこう疑問だったりする。地上で点を見上げて暮らしているかぎり、地球が太陽の周りを回っているというより、大地は不動で天のほうが自分たちの回りを動いているというほうが実感に近いはずだ。地動説には「そのほうが惑星の位置を計算するときに計算が楽」以上のありがたみがあったのだろうか? シャーロック・ホームズが地動説を知らなかったという話がたしか『緋色の研究』に出てきた。人類が月に行った時代に読むとホームズがいかにも奇矯な人物だと印象づけられるわけだが、19世紀末のホームズの時代にはそれはどの程度の奇矯さとして印象づけられたのだろうか? ただし、その後の作品で見せるホームズの博識ぶりからして、ホームズが地動説を知らなかったというのは疑問な気はするが――こういう問題の考察はシャーロッキアンの人びとに任せたい。
 人類が宇宙線を観測してこれまで存在しなかった粒子を発見したり、電波通信に遠くの銀河からの電波が飛びこんできたりして、地球上の人類の活動に宇宙のできごとが関係し始めた――というより人類がそれまで関わりを持たなかった宇宙的なできごとの領域に人類が踏みこんでいったあたりから、地動説が私たちの実感の領域に徐々に入ってきたのではなかろうかと思う。
 その後も、こんどは太陽系自体が銀河系の周辺に位置する一惑星系にすぎないとわかり、太陽は絶対的な宇宙の中心とは言えなくなった。太陽系や太陽近傍の恒星との位置関係を考えれば「太陽中心に惑星が回っている」という座標軸が有効だったわけだが、銀河系の構造とか動態とかを考えることになると太陽も一恒星としてしか位置づけられない。たぶん銀経・銀緯といった銀河系座標が有効になるのだろう。さらに、銀河系というものが提唱された当初は、銀河系は宇宙に唯一の存在であると考えられていたという話も読んだことがある。しかし銀河はほかにもたくさんあることがわかった。そうなると、宇宙のなかの座標軸としては、宇宙のどちらからもやってくる「宇宙背景放射」がほぼ宇宙の全方向で均等だと仮定して、それを基準としたズレとして表現されることになる。「銀河系を含むおとめ座銀河団が……の方向に向かって動いている」というのはたぶんそういう座標にもとづく基準だったはずだ。だが、その宇宙の背景放射が全方向で均等(「等方的」)なのは、巨大な宇宙の一部しか見ていないからだというような議論がつづくわけだから、それが私たちが見ていない部分まで含む絶対の基準として成り立つかというと、それはわからないとしか言いようがない。
 「天動説」的な「私たちの世界はとくべつに恵まれた世界だ」という発想から私たちはなかなか自由になれない。座標の広がりだけではない。たとえば、太陽系のほかに惑星系どれぐらいあるかというと、私が大学生だったころまでは、そんなにないのではないかと思われていたように思う。少なくとも現在のように系外惑星がつぎつぎに発見され、宇宙望遠鏡や巨大望遠鏡で惑星系誕生の過程が実際に観測されることなど予想がつかなかったのではないか。
 まあその究極が「生命は地球だけに存在するのか?」とか、「文明は地球だけに存在するのか?」というような問いになっていくわけだ。
 ちなみに、私が最初に地動説を知ったとき、恒星は太陽の周りを回っているわけではないということも教えてもらったように思うけれど、でも、宇宙のいちばん果てではポンコツの恒星がやっぱり太陽を中心に回っているようなイメージを抱いていた。なぜそんなふうに感じたかは自分にもわからない。「ポンコツの恒星」というのは、ところどころ錆びた鉄の惑星がところどころから炎を吹き上げている……というようなもので、星が終末に近づくと鉄ができるのはたしかなのだけど、でもこれって廃車かなんかのイメージだったんだろうと思う。