猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

本質顕現論

 昨日、自分で書いたことで、自分でちょっと気になったことについて。
 私は、社会の動きとかの「本質」はずっと以前から社会のなかに隠れていて、それが状況の変化で表に出てくる――という考えかたをしがちだと書いた。「社会が全面的に変わって新しい段階に進んだ」という考えかたを私はあんまりしないのだな。東浩紀さんの「動物化」論に私が違和感を持っているのもそういう点で、あくまで私から見れば、だけど、事実認識の点での違いよりも説明のしかたの違いのほうが大きいように感じる。
 私も社会が変化することを認めないわけではない。「本質」が隠れていて、状況や環境が変わったから表面に出てくるという。ということは、少なくとも状況や環境が変化して「本質」を引き出す程度には変化はしているわけだ。けっきょく、私は、引き出される「本質」と、それを引き出す「状況や環境」という二層構造を想定しているということになるんだろうか?
 という話をすると、ここで「本質」っていうもののあいまいさにぶち当たったりする。
 「本質」と対になることばはとりあえずは「属性」だけど、「本質/属性」をそのもの自体だけに即して分けることはできないという話も聞いたことがある。ほかのものとのかかわりで、ある「属性」が「本質」に見えたり、無視していいような軽い「属性」に見えたりするだけだということだ。
 たとえば、『月詠』の葉月にとって、ネコミミは本質か属性か? なんか原作ではファッションだがアニメではデフォルトなんだそうだけど。
 この問いは、葉月がネコミミを取ると葉月でなくなるか(だとしたらネコミミは葉月の本質)、それともネコミミを取っても葉月は葉月か(だとしたらネコミミは葉月のたんなる属性)、という問いに変換できる。としても、じつはこの問いは、これだけでは解決がつかない。「ネコミミを取った葉月は葉月じゃない」という見かたも、「ネコミミを取っても葉月は葉月だ」という見かたも成り立つからだ。ていうか、『月詠』のアニメってあんまり熱心に見てなかったからなぁ。ていう以前に原作も読んでないし。
 ところで、斎藤千和の声って猫系キャラに似合うんだろうか? 『かみちゅ!』では猫役だし、『ぱにぽにだっしゅ』のベッキーも猫っぽいキャラだし……。うーん、でも、ベッキーってどうなんだろう? 主張が強くてそっけない対応をするところは犬っぽい気もするし。でもネコミミみたいな着ぐるみの寝間着着てたしなぁ。
 で。
 考えたのは、「隠れていた本質が現れる」というときの「本質」ということばは、「本質‐属性」と対比される「本質」とは違うんじゃないかということだ。
 では、「本質‐状況」と対比されたときの「状況」とか「環境」とかいうのは、いったい何だ?
 「本質‐属性」よりさらに異質なものの対立に思えるんだけど。
 ネコミミが本質だとして、ネコミミはずっと世界の構造のなかに隠れていて、状況や環境の変化で表に出てきた?
 たしかにそういうことも言えるかも知れないなぁ……。
 まあいいや。また思い出したときに考えよう。