猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

アイロニーの起源

 だから、日本の会議というのは、「全員で討論とか検討とかをやって、みんなが長所・短所・利益・リスクみんなわかった上で決定する」というのとは違うように思う。いや、もし「そんなことはない! うちの会社(でもどこでも)はちゃんと討論して決めている」という人がいれば……そういうひとが羨ましいと思うし、そういう人がもし多数なのなら、私のいる環境があまりよくないの……かな?
 ともかく、日本の会議のパターンは、よくて「だれがこの件を決め、動かすか」を承認し、あとはその担当の人たち任せ――まあこれは度が過ぎなければ健全な民主主義だと私は思うんだけど、そうでなければ、日本の会議は、「どうせどこかでだれかが決めたとおりに動くんだろうけど、それに対しては疑問があるとか問題があるとか同意できないとかいうことは会議で言っておいたから」という言いわけを会議の参加者が持つための場になっているように感じる。それでうまく行けば、会議で揚げ足取りにもならない駄話を繰り返したことなんか忘れてしまうし、うまく行かなければ「だから会議のときにさんざん言っておいたじゃないか」とみんなで憤懣をぶつけ合う。そのために存在する会議――というあり方があるんじゃないだろうかという気がする。
 ……けっこう個人的な毒吐きになってますね……。いやほんと困るんですよ、ただでさえ時間がないのに。
 で、そういう「会議文化」というか、大きく言うと「民主主義文化」みたいなのの下では、この会議の「結論」通りにやったところで「うまく行かないことはわかっているけど、(議論するのも疲れたので)同意する」というのが普通になる。で、自分が決定の当事者であるはずなのに、一段高いところに立って、「うまく行くかどうか見てやろう」という気分で事態の推移を見守ることになる。で、けっきょくうまく行かなかったときには、少なくとも自分もその会議の決定に参加しているのに、それにはかかわらず、一段高い立場から「うまく行かないことは最初からわかっていた。おれの言うことをきかないからこんなことになるんだ」とうそぶくことになる。
 これって、北田暁大さん(id:gyodaikt)が『嗤う日本の「ナショナリズム」』で指摘した「アイロニー」の構図ではないか――と思うわけで。
 それを考えると、日本が「アイロニー」の国になったのは、連合赤軍事件とか、1970年代後半の消費生活肯定の風潮(糸井重里に代表される)とかより以前にタネを蒔かれていたからだ、という感じがするんですね。シニカルなのは、もっと言えば動物的なのは、けっして「オタク」とか「2ちゃんねらー」だけの現象ではなく、シニシズムとか動物化とかは日本の民主主義風土それ自体に根ざす部分が大きいのではないだろうか。まあ、こういう「日本特殊論」とか「決定論」みたいな考えかたは、北田さんや東浩紀さん(id:hazuma)の本意からははずれるように思うのだけど。
 うーん、私はもともと「本質はもとから隠れていて、それが状況に合わせて目立つようになるだけだ」という考えかたをしがちなのかなぁ。なんかこう「社会が全体に変わっていきます」みたいな議論にはどうしても抵抗があるんだよねぇ。ただ、じゃあ、「日本はもともとそういう国なんだ」とか「そういう風土なんだ」という結論で終わってしまう日本特殊論がいいかというと、そうも考えないのだけど。
 ところで、「日本の会議は」とずっと言ってきたけど、じゃあ諸外国の会議はそんなに理想的に「討論」できていたり「検討」できていたりするんだろうか? アメリカ(合衆国)型の組織は、執行の場面では上からの独裁というイメージがあるんだけど、ドイツやフランスやイタリアやラテンアメリカ諸国はどうなんだろう? イスラム圏の会議とか集会とかは、時間をかけて神の意思を探り出すというような話を聞いたことがある。でも、預言者時代はともかく、いまもやってるんだろうか?
 ところで、日本でも、いつも「全員一致までねばり強く」という議論をしていたかというと、そうでもなく、一揆のときなんかは、「神仏の意思は多数に宿る」と考えて多数決していたみたいだ(勝俣鎮夫『一揆』)。これはこれで、「なぜ多数決が正しいか」という理由づけに神仏が出てくるのが興味深い。
 会議の文化とか、けっこう複雑そうだなぁ。