猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

駄弁会議とマルチチュード成立の困難さ

 昨日の日記(id:r_kiyose:20060907)が短かったのは、あのあとに一昨日(id:r_kiyose:20060906)『マルチチュード』について書いたことのつづきを書こうと思っていたのだけど、気が散って集中力が続かなかったからです――って同義反復? 集中力が続かないのを「気が散る」って言うんだもんね……。
 昨日、けっこう憂鬱だった一つの理由は、今日の夕方に会議が入っていて、その会議のためだけに片道1時間かけて移動しなければならず、しかもその会議では何も決まらないことが目に見えていたからだ。
 で、今日、しかたがないのでその会議に行ってきた。予想どおり、「これこれの件は某別の会議に回して議論してもらいましょう」という以上に何も決まらなかった。でも、会議に出てみて感じたことは、じつは「今日会議をやっておいてよかったんじゃないか」ということだった。自分でもけっこう意外である。
 まあそんな会議なので、確たる議題があるわけでもなく、延々と愚痴とおしゃべりが続くだけだった。ところが、そんなおしゃべりのなかで、職場のほかの部署がいまどんな問題を抱えているかがよくわかった。私の勤務先のカイシャもご多分にもれず「縦割り」で、隣のセクションのひとたちが何をやっているか、何を考え、何を感じているかが必要最低限以下しかわからない。ところが、会議には各部署からいろんなひとが出てくる。そういう人たちが、議題を決めずに勝手にしゃべるものだから、そこで働いている人たちは、こんな仕事をやっていてこんなことを感じてるんだな、というのがよくわかった。
 まあそういうのは飲み会でやるものだろう――と思わないでもない。でも、職場では別のセクションの人たちと接する機会はもともとほとんどない。それではなかなかいっしょに飲みにも行けない。私の職場でも、飲みに行く相手は圧倒的に同じ部署の人たちで、それで気勢を上げて部署内の共同体的な結束を確認して夜更けに散会ということが多い。
 ここで思い出すのが、私がよく引く民俗学者宮本常一さんが書いている昔の「村の寄合」のことだ。
 村の寄合には、村の各家から代表者(その家の家父長、つまり普通はお父さん)が出てきて議論する。一つのことを決めるのに全会一致が原則だ。議論してみて、異論が出たら、なんとなく話は別の話題に移っていく。しばらくしてまたもとの話題に戻って、また異論が出たら、また別の話をする。それを異論が出なくなるまで繰り返す。そんなのだから、寄合が終わるまで何日かかかる。しかも、異論が出なくなって全会一致だと言っても、要するに疲れただけで、論理的に異論が論破されたわけではないだろうと思う――たぶん。
 すごく非効率な会議だし、しかも論理的にベストな解決がもたらされるとは限らない。でも、これがたぶん日本の会議文化であり、さらに言えば日本の民主主義なんだろう。日本といっても、私はアイヌ琉球の村の会議については何も読んだことがないから、もっと限定すると、日本列島で村優位社会があった地域での伝統、ということになる。でも、「小田原評定」とかで、大名の家臣団が延々と議論しているあいだに情勢がどんどん悪化していきました、という話もあるから、そういう「会議文化」は、村の意思決定から戦国大名の意思決定まで、けっこう広い範囲に及んでいたのではないかと思う。「小田原評定」だって、小田原包囲戦のときには致命的になったかも知れないけれど、それまでは後北条氏の意思決定の機構として有効に機能していたのではないだろうか。
 効率優先の会議では、会議に時間がかからないかわりに、そこでの議題と関係のない話題はぜんぶ切り捨てられていく。それで会議は時間がかからず、出席者にはストレスがたまらず、いいのだろう。けれども、そういう会議では、会議に出席してきた人たちが、その議題に直接に関係のないところでどんな仕事をしていて、何を考えているかという情報は共有できない。「議題に関係のない話題は話さない」という効率的な会議ばかりのカイシャでは、カイシャのなかでほんとうは何が問題になっているかが的確に把握できず、じつは適切な問題解決ができないのではないだろうか。
 今回のホームページ更新で「冗長性」の重要さということを書いた。非効率な会議でのおしゃべり的発言も「冗長性」を確保する一つの手段なのかも知れない。
 とはいうものの……。
 今日の会議はいちおう充実感があったものの、やっぱりその長い会議のおかげで半日近く時間がつぶれてしまったことに違いはない。それはこの週末で埋め合わせなければならない。それに、どうでもいいようなおしゃべりの続く長い会議で必ず充実感を感じるわけではない。いらいらすることのほうが多い。いらいらする主な原因は、ひとの話をきかないで自分の言いたいことを何度も何度も繰り返すだけの参加者がいるからだが(笑)、やはりもう一つ「会議が早く終わってくれないと予定がパンクする」というあせりがあるからだ。
 冗長性を確保するだけの余裕が仕事の場でどんどんなくなっている。そして、情報不足の上層部が見当ちがいの問題解決策を出して、しかもそれを受けとめる各部署が分断されているものだから、「抵抗」が組織できないばかりかその解決策の「見当ちがい」さを指摘することもできなくて、で、ストレスが一方的にたまる職場が形成されていく。