猫も歩けば...

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撰銭問題

 ところで、昨日、最初のほうで「貨幣は存在するのに統一的な管理者がいないために発生する経済問題」と書いたのは、黒田基樹戦国大名の危機管理』(この本については、id:r_kiyose:20051002, id:r_kiyose:20051026, id:r_kiyose:20051027で触れた)で「撰銭(えりぜに)問題」と呼んでいるものだ。
 当時、日本では、中国から入ってきた銭がおもに流通していた。金属自体に価値があるというのが通念だった時期には、どこの国が作った銭かということは問題にならない。ヨーロッパでも事情は似たようなものだ。どこの国の貨幣でも、金・銀・銅などの貴金属が一定の量含まれていればいい。
 もっとも、いちいち含有金属の率を計測するのは難しいので、どういう貨幣ならば信用できるというブランドが確立されていた。「どこの国の貨幣か」よりも「どこでいつ造られた貨幣か」ということが重要だったわけで、外国で造られた貨幣の質のよさが信用できれば、そちらのほうが流通したのだ。信用できる貨幣ならば、その貨幣に含まれている貴金属の価値以上の価格で通用していた。
 そこで、その銭の質がいいかどうか――貴金属がちゃんと含まれているかを判定して使うことが重要になる。そこで貨幣のより分けが行われる。これが「撰銭」だ。
 ちなみに、私は高校の日本史で「撰銭」の説明をきいたけれど、どうして「銭」の質が問題になるのかがまず理解できなかった。ニセ銭が多かったんだろうなぁという程度に理解しただけだった。また、「悪貨が良貨を駆逐する」という「グレシャムの法則」も理解できなかった。貨幣に「いいもの」と「悪いもの」があるというのがやっぱり感覚的に受け入れられなかったのだ。
 銭の価値に差があると、質の高い銭を退蔵する動きが起こる。それに対して、逆に、質の高い銭でないと支払いを受け取らないとかいう動きも出てくる。質の高い銭でないと通用しないということになれば、通用する貨幣の量がどーんと減って、いきなりデフレになってしまい、物価高になって庶民生活が壊滅する。そこで、大名が、その権力で、粗悪な銭の混入率を決定し、それ以下は不正な支払いと見なすとともに、その率の範囲内ならば支払い受け取り拒否も禁止するというふうに管理していく。それで人びとの暮らしがきちんと成立するように管理していくわけだ。
 『戦国大名の危機管理』に描かれていたのは、大名の政治権力ができてくる過程だった。領国の人びとを(「村」の単位でまとまった人びとを)生きさせていくために、政治権力が大名に集中してくる。これは「国家」の誕生と言っていい(というような話は前に書いた。id:r_kiyose:20051027)。
 国家自身が貨幣を鋳造していなくても、銭の価値に差があるところで、人びとの生活を安定させていくためには、国家権力の存在は必要だということだろうか? そこからやがて国家自身で貨幣を鋳造して管理するという体制ができてくるのだろうか? こういうことも考えてみたい――いつか機会があれば。