猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

小林標(こずえ)『ラテン語の世界』(中公新書、isbn:4121018338)

 『独習者のための楽しく学ぶラテン語』という本があることは、ラテン語についてのほかの本に載っていたので知っていた。その本の著者の小林標さんの近著である。
 おおざっぱに言うと、ラテン語の歴史、文法、ラテン語のヨーロッパ語への広がり、ラテン語文学、単語から見るラテン語、古典期より後のラテン語というのが本書の構成だ。
 actio というラテン語が action に発展したのはわかるけど(単数・主格は actio だけど、それ以外の「格」では action を基本に変化する)、最初の ac- というのが ag- と同じことばで、agitation なんかも同じ系統の言語だというのはこの本で初めて知った。って、いまどき、「アジ」って言ってもわかんないよね〜。
 あと、「再〜」を意味する「re-」というのが、本来は「red-」で、「リアクション」とかいうのはラテン語的にはおかしい、というのも初めて知った(reaction, reuse とかではなく redaction, reduse とするのがラテン語式)。まぁ、起源はともかく、今日、「re-」なんとかということばを「再〜」の意味で使うのは、ラテン語の造語法というより英語とか英語式の造語法だもんなぁ。「和製英語」という概念があって、「こういう英語は本場では通用しないからダメ」という非難があるけど、そんなことを言えば英語なんか「英式ラテン語」であふれているということになりそうだ。だからといって、日本語で造語すればいいものをわざわざ英語式で造語するのがいいとも思わないけれど。
 おもしろかったのは、ポエニ戦争でローマが負けていたらヨーロッパの言語はどうなっていただろうというシミュレーションの話だ。ラテン語というのはもともと「イタリアの言語」ですらない。「イタリア語派」の一地方言語に過ぎない。たまたまその地方言語を使う地域からローマという都市が大帝国に成長してしまったために、イタリアはもちろん、ルーマニアからポルトガルに及ぶ広い地域の言語になったのだ。
 では、ローマがカルタゴに負けていたらどうなるか? ローマ帝国は成立せず、いまのラテン系言語圏がラテン語を話す勢力に支配されることもあり得ず、したがっていまこれらの地域にラテン系のことばが残ることはあり得ない。では、カルタゴの人びとが話していたであろうセム系のフェニキア語がラテン語にかわって地中海共通語になったのかというと、著者の小林さんはそのことには否定的だ。カルタゴ人はその支配領域にフェニキア語の文学的文献を残していないというのがその理由である。
 そうするとどうなるかということは、小林さんは「イタリア半島のことばは統一されず、ウェルギリウスの詩もキケロの演説も残らなかっただろう」という程度のことしか予測していない。それでも、ラテン語の専門家、というより、ラテン語の大ファンである小林さんには大問題だろう(ガンダムシリーズのオタクの人にとって「そもそもファーストガンダムという作品が存在しなかったら」という仮定と同じようなものかも知れない)。
 そこで、それ以上のことを予測すれば、まずいちばんありそうなのが、当時の地中海の有力言語だったギリシア語が地中海一帯の共通言語として広がった可能性だ。とくに、ローマ帝国が存在せずにキリスト教が存在した場合(ローマ帝国がなくてキリスト教がああいう広がりを見せたか、という問題はあるわけだけど)、新約聖書の言語はギリシア語なのだから、キリスト教会の言語としてギリシア語が主に使われてヨーロッパに広まるということはあったかも知れない。でもギリシア語って勉強するのたいへんらしいですよ〜。It's all Greek to me.で「ぜんぜんわかりませ〜ん」という表現もあるらしいし。
 あとは、ゲルマン系諸族の大移動で、現在のラテン系言語圏がすべてゲルマン系言語に覆われてしまった可能性があるのと、強力なラテン語の存在しない地中海世界アラビア語がどこまで影響を拡大できたかというあたりが焦点になるかも知れない。
 ともかく、言語は政治的支配か優勢な世界宗教に伴って広められることが多いわけで、言語そのものの特質とその広がりとにはあまり関係がないようにも思う。あと、東アジアのばあい、漢字が表意文字なので、「言語は漢語ではないけど表記は漢字」というあり方がいちおう可能だったのに対して、ラテン系言語のばあい、「言語はラテン語ではないけど表記はローマ字」というのがあり得ない……と思ったら可能じゃん? 日本語も中国語もローマ字表記できるし。だからゲルマン系のことばもラテン語優勢の下で残ったんだ、といえばそうなんだろうけど、でも「漢字の残りかた」と「ラテン語の残りかた」というのは違う気がするなぁ。
 小林さんも、もうだいぶ前に紹介した逸身さんも、『はじめてのラテン語』の大西英文さんも含めて、「ラテン語が好きなラテン語専門家」の本を読むと、学問的厳格さとある種の寛容さが同居しているところがあって、それもラテン語の特質と関係しているようで、興味深い。たとえば、小林さんのこの本では、「命令法」の「法」と「不定詞」の「詞」を混同してはいけないという厳格な区別の大切さが説かれる。「法」というからには、動詞がある形をしたときにそれだけである意味が重ね合わせられなければならない。だから、ラテン語の vide は、video ということば(これは英語の「ビデオ」の語源ですね)がこう変わっただけで「見ろ!」という意味になるから「命令法」だが、英語の look は別にことばが変わって「見ろ!」になるわけではないので「命令構文」にすぎず、「命令法」ではないという。こんなことを言えば小林さんには怒られるのだろうけど、まぁどっちでもいいような区別である。一方で、この本は基本的に古典発音で書かれているのだが、日本人が万葉集現代日本語の発音で読んでラテン語を古典発音で読むのはどっちも極端だという議論も出てくる。
 ここで前に採り上げた教会発音の問題も出てきて、小林さんによるとやはり古典時代のローマ人の発音は古典発音だったらしい。その古典発音は、ラテン語を外国語として学んだイギリス(というかブリテン島)のような地域には残ったけれど、むしろふだんからラテン語を使っていたような地域からは失われたという。
 カトリック教会の人にとっては、教会発音が広く受け入れられた「正しいラテン語の発音」なのだろう。しかし、この本には、エラスムスが教会発音を非難し、古典発音が行われていない現状を嘆いたという話も出てくる。「カトリック教会―教会式 対 人文主義者―古典式」という対照がおもしろい。ともかく、古典発音は近現代の古典学者が学問的・人工的に作り上げた砂上楼閣的な発音などではなく、実際に行われていた発音であり、しかもそれが「正しい発音だ」という意識も常に存在したのだということはこの本を読めばよくわかる。ただ、前にも書いたしコミケで出した本にも書いたように、私は「なに発音でなければダメだ」という発想はあまり意味がないと思っていて、ある発音で学んでいても「ほかの発音もあるのだ」ということを理解しておくことがより重要だと思っている。
 ところで、「戦争」を意味する bellum がラテン語から他のラテン系言語に継承されなかったのは、ローマを攻撃したゲルマン人たちの「戦争」ということばが、攻撃されて滅ぼされたローマ人のことばに勝ったからだというのがこの本の小林さんの説明である。でも、滅ぼされるまではローマ人もあちこちに戦争を仕掛けていたわけだし、「攻撃する人→最高司令官→皇帝」の imperator 系の単語(Emperorとか)も残っているのだから、これはどうなんだろう、とも感じる。むしろ大きかったのは bella で「美しい」というよく似た単語の存在じゃないだろうか。ラテン語には、同じ音で別の意味のことばがなければ変化する音が、先に別のことばがあれば変化を避けて混同しないようにするという傾向がある。それで bellum も使われなくなったのではないだろうか――と思ってよく考えたら bella ってラテン語本来の単語? ラテン語には formosa で「美しい」という別の単語があるしなぁ(ちなみに formosa はポルトガル経由で台湾の別名、で、台湾ではそれを翻訳して「美麗島」という言いかたがあるとのことだ。受け売りだけど)。う〜む、どうなんだろう……。
 あと、この本には、インド‐ヨーロッパ系言語の基語(祖語、原言語)の話し手は馬は飼い慣らしていなかったと書いてあるのだけど、風間喜代三さんの本によれば、インド‐ヨーロッパ基語には「馬」を意味することばがあり(「ekwos」という感じのことばらしい)、また、馬との関係がインド‐ヨーロッパ語集団の広がりに関連してずっと議論されてきたということである。「海」についても、この本には「海は知らなかった」と書いてあるのだけど、もともとあったのが、アジア大陸のほうに広がった一派では(海がないので)忘れられて、あとで再獲得されただけだという話もあるらしく(「基語再建」ってこういう問題がついてくるんですよね)、また、基語の「海」はたぶんカスピ海だろうという話も風間さんの本に出てきたように思う(風間さんの印欧語の本はまた採り上げたい)。
 何度か書いたけれど、この本を読むと、著者の小林さんが、ラテン語の専門家であること、ラテン文学をよく読んでいること、すごく博識であることがわかるという以上に、著者がラテン語とラテン文学が非常に好きだということがよく伝わってくる。