猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

ここで「理科嫌い」の考察

 ところが、中学校と高校の物理で、計算がややこしく、その計算が必要な理由も理解できなくなって、ついて行けなくなり、私は「理科嫌い」になってしまいました。「嫌い」ではないんだけどね。夜中の高校講座(の再放送)を見るくらいには「興味はある」のだけれど、じゃあ、いま、時間とか教材費とかその他必要なものをやるから、高校の化学の授業を受け直して試験も受けていい点を取りなさいと言われると、やっぱり厭だという程度には「理科嫌い」です。
 学校科目の理科が嫌いだった(いまもたぶん嫌い)から、こういう内容を書くと「たぶん〜〜です、よくわからないけど」とか「不正確だと思うけどこれで許してください」とかいう表現が頻発するのです。でも、そんな状態でも、こういう内容を書いてみたいと思う程度には、興味はあるんですよね。
 いまの中学生や高校生の事情は具体的にはよくわからないけど、その自分の体験からいうと、たとえば、「理科に関係のあるできごと・現象」は好きでも、「学校の科目としての理科」は嫌いという生徒は、ある程度の数はいるんじゃないかと思います。逆に、理科系科目の計算とかは得意でも、「どうしてそんな現象があるか?」には何の興味もないという生徒もいるだろうし。だから、「理科好き」と「理科嫌い」は、「「理科嫌い」ならば「理科好き」ではあり得ない」という「相容れない」・「相反する」存在ではないんじゃないでしょうか。
 私は、いま系外惑星とか原子惑星系円盤とか太陽系外縁天体(海王星より遠い天体)とかいう話をここにときどき書いていますし(今回の内容もそこから「派生」してきたものだし)、閉鎖直前まで、いまは建物自体がもう存在しない渋谷の五島プラネタリウムに毎月通っていたくらいで、天文現象には興味があります。
 でも、高校の地学で天文分野を学んだときには、学年最低点を取りました。「惑星の見えかたを計算する」という計算問題で大失敗したからです。観測者のいる惑星の軌道データと、その観測者が観測している惑星の軌道データから、いつ、その惑星が、どちらの空にどんな形で見えるかを計算するという問題でした。
 たぶんその計算ができないと「学校科目としての地学(天文分野)」としてはだめなんでしょう。でも、「天文好き」としては、惑星の見えかたなんか、自分で計算しなくても『天文年鑑』を見ればいいのです。さらに、現在ならば「ステラナビゲータ」とかの天文ソフトがあります。
 「理科的な現象」への興味をかき立てても学校の科目としての「理科嫌い」はある程度は残ると思うし、「理科嫌い」は多くてもそれは「理科的な現象」への興味を支える層そのものが絶滅するということにもならないと思う。だから、学校で教える科目だけを頭に置いて「理科嫌い」を減らそうとしても、もちろん効果はあると思うけれど、「根本的な解決」はできないんじゃないかな?
 また、学校教育のレベルで「理科嫌い」をなくすことにどれだけ社会全体にとっての意義があるのかも考えたほうがいいかも知れない。問題は、社会全体の「理科嫌い」のほうではないかと思います。「嫌い」というより、社会の「理科的なものごとへの無関心」ではないか。さらに言えば「理科的な考えかたへの無関心」ではないかと思う。
 なぜ、学校科目としての天文学で「惑星の見えかたを計算する」という技術の習得が必要かというと、専門の天文学者になったときにその計算ができないとどうしようもないからです。でも、星空を見て楽しむだけならばそんなことができる必要はないし、惑星や銀河の観測をするのであっても必ずしも知っていなければならないものではない。学校の地学の試験で「惑星の見えかたを計算する」という問題で挫折した人間が、それで、惑星の観測からも、それどころか単に星空を見て季節を感じるようなことからも遠ざかってしまうような仕組みを変えるのが「理科嫌い」対策なのではないかと思いますが。
 何か「水」の話が「理科嫌い」にまで広がってしまい、しかも両方とも中途半端になって、なんか収拾がつかなくなってしまいました。長くなったので、どっちの話も、続きはまた別の機会にするということで、今日は終わりにしましょう。