猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

こんどは「政治的」のほうに注意が必要かも

 ただ、では、後の「市民社会」論的な発想がロックにはまったくないかというと、そうではないようです。だいたい、「自律的な市民社会」が「国家」に対抗するという構想自体が、「支配者が、人民との契約に反して、義務を果たさなかったり、悪いことをしたりすれば、人民はその支配者を倒す権利がある」というロックのこの「第二論」の発想から影響を受けて成り立っているのですから。
 ロックによれば、王が「臣民」を自分の持ちもののように気ままにこき使うようなやり方は「政治」ではない。「政治」とは、あくまで、人びとが自分の国を「自分たちの公共のもの」として成り立たせているばあいにしかあり得ない。支配者と支配される者のあいだに最初から上下関係があるような状態では「政治」はないのです。そういう「最初からの上下関係」の下での支配は「専制」ではあっても「政治」ではない。そういう点では、「市民」が「社会」を構成し、その上に「国家」が成り立っているばあいにしか「政治」はありえないという構想なのです。
 古典時代のギリシア都市国家が基本となっている社会でした。また、ローマは「帝国」になりますが、その基礎はやはり都市です。都市の「市民」の共有物としての「国家」にしか「都市的なこと、都市に関係すること」(politics)としての「政治」はありえない。そういう「感覚」もロックの「政治」には残っている。
 だから、従来、 civil と political を「市民(的)」と「政治的」と訳し分けていたことには問題があり、それを「政治的」に統一したことには意義があるとしても、今度はその「政治」ということばの意味にやはり注意する必要があるようです。つまり、civil が「政治」と訳されたぶん、「政治」に、いままで「市民」と訳されていたニュアンスを反映させて読む必要がある――ということになるのではないでしょうか?