猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「コモンウェルス」の「政治」から排除される人たち

 ロックは、コモンウェルスの国内に「平等でない関係」そのものはあってもかまわないと考えています。たとえば、ロックは、国王の権力を「家父長の絶対権力」と解釈するフィルマー卿を厳しく批判する一方で、家庭のなかでの親と子の上下関係は認めています。子どもはやはり親の言うことをきかなければならず、親を尊敬しなければならないというわけです。また、ロックは、父親と母親は同じように尊敬されるべきだと繰り返し強調していますが、ばあいによっては、父親が「家」の代表として、つまり「家父長」として家の権力を握ることも認めています。
 親子関係以外では、主人と奴隷の関係もあってもいい。ロックは、戦争が「正当な戦争」であれば、捕らえた敵を奴隷にすることも認めているようです。そういえば、昔は、マスターとスレイブの設定をまちがえるとハードディスクを認識してくれないとか、いろんな事件がありましたなぁ――ってもはや一部のひとにしか理解できない話題ですね。
 けれども、コモンウェルスでは、その「家父長の権力」や「奴隷に対する主人の権力」が「国家を支配する権力」につながってはいけない。親子の上下関係や主人‐奴隷の上下関係はあってもいいけれど、コモンウェルスではそれを国家の支配に結びつけてはいけない。コモンウェルスでは、国家の支配にかかわる人たちの関係は平等でなければいけない。
 ロックのこの主張は、論敵のフィルマー卿のような、「王は、「国の家父長」としての絶対的権力を握っているのだから、国民は王に絶対服従しなければならない」という議論に対して行われているものです。また、具体的な論敵の名は挙げていないのだけれど、「王は征服者(の子孫)であって、国民は被征服者(の子孫)なのだから、王は国民に対して絶対的な権力をふるってよいのだ」という議論もロックは論敵の議論として意識しています。それに対して、「政治と呼んでもいい支配とは、父だからとか、征服者だからとかいって自分の権力を正当化するような支配者の支配のことではないのですよ」というのがロックの主張なのです。
 ロックのコモンウェルスでは、人民はすべて平等でなければならない。王はいてもいいのだけれど、王も本来は「人民の一員」であることが条件です。そして子どもや奴隷も「政治」には参加できない。それは、子どもや奴隷は政治に参加する人民と平等な関係にないからです。
 つまり、「親と子」や「主人と奴隷」の関係は「家」のなかに封じこめ、「家」のなかで保護を受けたり支配を受けたりしている人たちは排除したうえで、ロックはコモンウェルスの「政治」を構想している。「不平等な上下の支配関係」は完全に「家」の内部のできごとにしてしまう。そして、「家の外」に出れば、「家」での「親」や「主人」も平等な「人民」なのだから上下関係はないということにする。その関係をもとにしたのがロックの「コモンウェルス」なのです。
 これは、古典時代ギリシア古代ローマの「政治」の原則と同じです。古典時代ギリシア古代ローマでは、子どもや奴隷は「政治」に参加できないのが原則でした。