猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「人間と人間の交わり」が主要な社会

 けれども、私は、それよりも、人間が都市に住むようになって(または住んでいるところが都市的な場所に変化して)、「人間と人間の交わり」が人間生活の多くの部分を支配するようになることが「社会状態への移行」だと考えるのがいいと思います。
 つまり、「自然状態」では、人間はまず「自然」の相手をしなければならず、「ほかの人間」との交わりは主要な関心事ではなかった。そういう場所では、「ほかの人間との交わり」は、一時的で場当たり的でもよかった。
 ホッブズのばあいには、「自然状態」の人間どうしは「万人の万人に対する戦争」の状態にありますが、自然のなかで人間とたまにしか出会わないのならば、別にその相手との関係が「戦争」状態であっても、じつはたいしたことはない。「自然の猛威」と戦うほうがよほどその人にとっては重要なことのはずです(そういう書きかたはホッブズはしていなかったと思うけれど)。
 ロックの「自然状態」のばあいでも、たまたま出会った人間とは、大まかな「自然法」の原則を大ざっぱに知っておいて、それに基づいて対処すればいい。ロックのばあいでも、人間は堕落しやすいので、その「自然法」の原則を破る「悪いやつ」は出現しやすいという想定にはなっているのですが、「自然」のなかで生活していて人間に出会う機会が少なければ、そういう規則破りにはそのときどきで個別に対処すればいいわけです。
 まあ、実際には、そんなふうに「大自然のなかの小さな家」で生活している人間は「自然」状態でもまず存在しない。それに、「大自然」のなかにいるからこそ人間との繋がりがかえって重要になるかも知れません。だから、この「社会契約論でいう自然状態」は、「都市の人間」を考えるために、森や原野で、家族だけで孤立して生活しているような「自然のなかの人間」の極端なあり方をわざと「設定」しているのだと考えたほうがいいでしょう。もっとも、ロックもルソーも「未開社会」には関心を持っていたので、ロックやルソー自身はヨーロッパの外のどこかにそういう「自然状態」が実在すると考えていたのだろうとは思いますが。