猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

ところで「専制」対「自由」の構図は歴史的事実なのか?

 ところで、現実の古典時代ギリシアの人たち自身がいつからこのような意識を持っていたのか? いや、そんな意識を持った古典時代ギリシア人が現実にどれだけいたのだろう? それは私にはよくわかりません。もしかすると、現実には、「自由なギリシアと、不自由な専制のペルシアやエジプト」という意識を持っている人はそんなにいなかったのではないかとも思います。
 私がそう思うのは、ギリシア人だって、支配者を英雄と考えたり、神や英雄の子孫と考えたりしていたはずだからです。アテネの伝説的な王テセウスや、テーベの王オイディプス(近代心理学のひとが大好きな「オイディプス・コンプレックス」のオイディプスです)などは、神々の世界とも交流を持ち、自身も「英雄」でした。ギリシアの「英雄」は、オリオンやペルセウスが星座になっているように、準「神様」扱いされましたから、神々の一部と考えてよいでしょう。また、現実の系譜はどうあれ、古典時代までのギリシア人はホメロス(ホーマー)の『イリアス』や『オデュッセイア』を愛唱し、ホメロスの詩に歌われた時代の神々と英雄と人との交流を信じ、自分たちはその英雄時代のギリシア人の子孫だと思っていたわけですから、やっぱり、自分たちの都市の政治的起源が、少なくとも遠い時代には神様につながっていたことを信じていたと思うのです。
 また、ヘロドトスの『歴史』を読むと(私はじつは拾い読みしかしていないのですが)、その「専制」の王国の宮廷に自分を売り込みに行くギリシア人がいたことがわかります。古典時代のギリシア人がほんとうに「自由」を愛して「専制」を憎んでいたら、そういう人はいたとしても少数だったはずです。
 古典時代ギリシア人は、ギリシアの都市世界以外の王国もギリシアに似たところと考えていたのではないでしょうか? エジプトやペルシアの神々も平気でギリシアの神様の名まえで呼んでいますし(たとえばそれぞれの国の最高神はどこの国の神様でも「ゼウス」と呼んでいた)、ギリシア神話にはギリシア都市世界以外のエピソードも多く含まれています。たとえば、星座になっているカシオペア、ケフェウス(カシオペアさんの旦那で王様だがカゲが薄い。ついでにいうと星座もカゲが薄い)、ペルセウスアンドロメダ、化けクジラ(星座絵を見るとくじらじゃないんだけど)などの物語は、(現在のエチオピアとは違う場所らしいけれど)「エチオピア」の王家の物語として語られています。現実の古典時代ギリシア人は、地中海にもアジア大陸にも積極的に乗り出して「ギリシアの都市世界以外の世界」にどんどんと出て行っていた、活発で活動的な人たちです。そういう人たちには、「ギリシア都市(文明)世界/それ以外」という区別はあまり意味を持たなかったのではないかと私は思うのです。
 もっとも、これは、かなりしろうと的・天文ファン的な感想なので、正確なところは専門家の方にお委ねしたいと思いますが。