猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

「自由」なギリシア 対 「専制」の東方諸王国という図式

 もし「自由」なギリシアと「専制」的なペルシアやエジプトという図式がギリシアのもともとのものでないとすると、それはどこでできのでしょうか。
 詳しいことはわからないけれど、紀元前5世紀ごろに、強大なペルシア王国に対してアテネやスパルタ(「スパルタ」というのは都市名で、正式国名は「ラケダイモン」らしい)が同盟して戦った「ペルシア戦争」が関係していたのは確かでしょう。「専制者」であるペルシアに対して、ギリシア諸都市の「自由」を守る戦いという図式です。
 もっとも、この意識も、実際にどれくらいギリシアの人たちに共有されたかというと、よくわかりません。このペルシア戦争をペルシア側で戦ったギリシア都市だってありますし、そのすべてが「ペルシアの専制」の圧力の下でやむなくペルシアに味方したわけでもないでしょう。
 この図式を定式化したのはヘロドトスの『歴史』だといわれます。でも、実際には、むしろ、現実には都市中心の社会がうまく機能しなくなり、解体の過程に入ったプラトンアリストテレスの時代からではないかと思います。
 とくに、人間を本来「都市的=政治的」な生きものとして、都市と都市的な政治を「人間本来のあり方」に定めたアリストテレスの影響が大きいのではないでしょうか。しかも、アリストテレスの時代には、ギリシア諸都市の世界は理想的な過ぎていました。それは、アリストテレス自身が、そのギリシア諸都市を征服したアレクサンドロス大王の教師であった(と習ったんだけど)ことからもわかると思います。アリストテレスアテネの政治史をよく知っていたようですが、アリストテレスの政治体制論には、「本来はギリシアの都市の政治はこうだったはず」、「本来はこうでなければならない」という理想が入りこんでいるのではないかと思います。
 もっとも、アリストテレスは、徹底して理念(イデア=アイデア、理想)に入れこんだプラトンと違い、「現実」をよく観察した哲学者・科学者です。その「科学」の多くは、後にガリレオとかニュートンとかにひっくり返されてしまうけれど、それは、つまり、「近代科学」が出てくるまで1000年以上もその「科学」が通用したということです。
 「現実観察」にすぐれたそのアリストテレスが、自分が諸都市の崩壊期に生きていたにもかかわらず、人間は本来は都市的な生きものであって、都市の政治こそ人間の理想的な政治支配であると論じたのはなぜか? どうして「都市的な政治は時代遅れになりつつある」と論じなかったのか? その事情も知っておいたほうがもしかするといいのかも知れません。
 私にはよくわからないのですけれど。