猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

二つの「君主制」

 「自由」なギリシア諸都市の「政治」(=都市運営)体制の一つのやり方として、権力を一人に集中する「君主制」という方式がある。他方で、ペルシアやエジプトなどの東方の国家の、人民を王の「持ちもの」としてこき使う「専制」的な王制がある。ロックはこの二つを区別して、「自由」なコモンウェルスを前提とする「王制=君主制」は「政治」(都市的な統治)の枠内に置き、「専制」的な王制は「政治」の枠からはみ出すものとして排除しています。
 それは、「第一論」のフィルマー批判とも関係があります。つまり、具体的にイギリスの王制をどう考えるかということで、ロックは
  「政治」的統治‐自由‐コモンウェルス‐王も市民の一員であり、王はコモンウェルスの役職の一つであるような王制‐ロック自身はこのような王権を構想した
  「政治」的ではない統治‐専制専制王国‐王は「神」や「神に特権を与えられた者」として絶対的な支配権を握る王制‐フィルマー卿はこの王権論の理論家
という図式を立てている。そして、「政治」的統治の「コモンウェルスの王制」を擁護して、「政治」的でない専制王制に反対するという立場を明らかにしているわけです。
 けれども、実際には、まず王制というのが存在して、それを「コモンウェルスの王制」と解釈するか「専制王制」と解釈するかというところに違いが出てくる。実際には、「自由」な「都市」の「政治」か、「専制」的な王の支配かという区別が先にあったのではなく、たぶん、「王制」とか「君主制」とかいうものが先にあって、あとから「コモンウェルス的な都市の王制と専制国家の王制は違う」という議論が出てきたのでしょう。
 ただ、古典時代ギリシアの都市の「王」と、ペルシアなど強大な専制国家の「王」は性格が違うということは、ペルシア戦争の時代には、ペルシアに対抗した側のギリシア諸都市には意識されていたのではないでしょうか? ペルシア戦争では、都市(スパルタやテーベなど)の王は、指揮官としてであっても、戦争の第一線に市民団の一人として出撃した。そんなギリシア都市の王と、向こうから攻めてくる連中の後ろにいる神のような権威をまとった偉大な王は違う。それは意識せざるを得なかった。しかも、ギリシア都市の人びととしては、「こっちがほんとの王だ、こっちの王のほうが立派だ」と思わなければ戦っていられない。
 そういうところでできた意識が、後の時代に定式化され、ローマ共和制国家、ローマ帝国、中世ヨーロッパと受け継がれて行ったのでしょう。