猫も歩けば...

― はてなダイアリーより引っ越してきました ―

現代でも「絶対的に偉い一人の支配者」は存在する

 でも、それが「一人」でなければならないかというと、どうなのでしょう?
 国の政治を「代表」する人が一人決まっていたほうが、その国の政治をイメージしやすいということはあります。だからたとえばアメリカの政治だと大統領に注目が集まる。実際にアメリカの官僚機構がいろいろと検討して実行した政策でも、「オバマがやった」とイメージするほうが普通だし、そのほうがイメージしやすいでしょう。これは、べつに国ではなくて会社でもいい。「オバマ」でなくても「ゲイツ」でも「ジョブズ」でもいいわけです。
 でも、これも絶対にそうとはいえない。たとえば三菱重工の社長さんは大宮さんとおっしゃるのだそうです。でも、三菱重工という企業をイメージするのに、この社長さんをイメージする人はあまりいないのではないでしょうか。だから、大企業だからといって、だれでもその名まえを思い浮かべられるようなスーパースター的な経営者がいなければならないということはない。
 けれども、それは、近代民主主義が確立した国の話、または、そういう国に拠点を置く企業の話です。
 国内が不安定だったり、国際的環境が厳しかったりする国では、一人の政治家の権威を絶対化して、国民には、その政治家への絶対服従を要求し、また絶対的な敬愛を捧げることを要求するという例は現代社会でよく見られます。そういう国が、その絶対的指導者を排除して「集団指導体制」になったら、民主化してうまく行くこともあるけれど、逆にぐちゃぐちゃになって分裂してしまうこともあるし、また別のだれかが絶対的指導者になって「一人が絶対的に偉い政治」を復活させてしまうこともある。どうも、現代でも、「絶対的な偉い人が一人だけいる」ということが政治に安定をもたらす場合がある。その「政治の安定」が「いい安定」なのかどうかはここでは問題にしないことにして、ですけれど。
 現代でそれがあるということは、「昔は宗教が強い力を持っていたから」という説明では不十分だということです。
 たしかに、「王(または皇帝)は神だ」とか「王(または皇帝)は神に選ばれた特別の人間だ」とかいう説明で、「絶対的に偉い支配者」を権威づけるということはよく行われた。その場合、やはり「絶対的に偉い支配者」は一人であるほうが単純で都合がいい。「この国を支配する5人の神様がいます」とか「この国には神様に選ばれた10人の支配者がいます」とかいうことにすると、「じゃあ、その5人の神様のうちだれがいちばん偉いの?」とか「10人の支配者のうちだれがいちばん神様に愛されているの?」という疑問が出てくる。「絶対的な権威」にとってそういう疑問を持たれるのはあまりよいことではない。だいたい「絶対的に偉い人たちのなかでだれが偉いの?」と疑問を持たれると、それは「絶対的な偉さ」ではなく「相対的な偉さ」になってしまいます。だからやっぱり「絶対的に偉い支配者」は一人に決まっていたほうが都合がいい。
 でも、神様の権威を借りた説明が説得力を持たなくなった時代にも、「絶対的に偉い支配者」は一人であったほうが都合がいいという例があるということは、やはり、その「神様の権威」以外に「一人であること」の意味と理由はあるのでしょう。
 では、それは何なのか?
 また、近代民主主義が確立した国では、なぜ、そういう「絶対的に偉い支配者」がいなくてもすむのか?
 これを考えるのはまた別の機会にということにしましょう。